桐ノ院整体院

浮気どころか不倫だぞと罵られ隊

インターネットが好きだなぁという話

初めてインターネットの人と会ったのは2001年だった。

インターネット黎明期だった90年代から2000年初頭。大学生だった私は、好きだった漫画の二次創作サイトや、当時流行していたテキストサイトなどを日々巡回していた。

当時はまだ多くの人にとってインターネットというものは「新しいもの」だったので、おっかなびっくり使っていたと思う。掲示板やチャットなどで知らない誰かと交流することはあったものの、その人たちと会うとなるとかなりハードルが高かった。だから初めてネットで知り合った人と会うことになったときは色々な友達に「大丈夫? 危なくない? なんかあったら電話しなよ?」と念をおされたのを覚えている。(ちなみに携帯電話も、ようやくほとんどの人が所持するようになってメールの文字制限がなくなった頃だった)(それまでは全角50文字しか入力できなかった)

 

初めて会ったネットの中の人たちは、アンパンマンファンの女性たちだった。当時の私は「アンパンマンの擬人化」というニッチなジャンルにハマっていて、アンパンマンの二次創作をしているサイトの掲示板に入り浸っていた。アンパンマンは毎年夏に映画が公開される。掲示板の常連みんなで、今年のアンパンマン映画を見に行こう、となったのが人生初めての「オフ会」だった。

今ふりかえってみると「いくらネットで頻繁にやりとりしていても、個人情報を明かすのはおっかないよね」というのがその時会ったメンバーの共通認識だったのだろうな、としみじみ感じる。その日私たちは、集まって映画を見て、飲みにいって、楽しいからもう一件、とカラオケに行き、アンパンマンの歌を片っ端からいれて超盛り上がって解散した。私はメロンパンナちゃんのメロメロパンチの歌を歌った。5人ほど集まったその会で、携帯番号やメアドを交換した人はひとりもいない。みんながみんなハンドルネームのまま呼び合い、それ以上の情報はなにも得ないまま、また日常に戻った。

 

ネットの人と会うの、別に掲示板でやりとりするのと変わんないな! と気が大きくなった私は、次のオフ会へ行った。当時アンパンマンと平行して熱中していたジャンル、フードファイター(大食い選手)を囲む会である。

若い方はご存じないかも知れないが、2000年初め頃に、大食い番組がブームとなり大食い選手たちがアイドル的な人気を得ていた時期があった。あるフードファイターが大好きだった私は、やはりファンの集うサイトの掲示板に入り浸り、ついにオフ会へ行ってみることになった。

 

ただ、この日のオフ会はアンパンマンの時と少し違った。現役のフードファイターを招く会だったのである。そして私以外の参加者は、いわゆる「現場に行くタイプのオタク」だった。全国各地で行われていた大食いのイベントへ、推し選手を見るために動き回っている人たち。その界隈では有名な方々で、参加者たちは皆顔見知りだったし、フードファイターたちにも認知されていた。認知されていたゆえ、本人が来てくれるという夢みたいな会が普通に行われていたのである。

テレビで見ていたある選手が目の前に表れ「まずは肩慣らしに」とマックのハンバーガーを20個食べてくれた。途中で飲み物が足りなくなって「コーラ買ってきて」と言うのでファンの方たちが買いに行き、「オマケ付けといたよーw」とコーラの他にハンバーガー5個を添えて戻ってきた。彼は苦笑いしながら普通に平らげ、そのあと彼がバイトをしているという居酒屋で宴会をし、私たちが残した宴会料理も全て彼が食べ、やはりカラオケに行って解散した。

この日はハチャメチャに楽しかった、なんならアンパンマンの時よりもノリがあう人ばかりで本当に楽しかったけれど、若干寂しさを感じたのも覚えている。私以外のオタクたちは、現場で何度も会っているし、もはや普通に仲のいい友達のようだった。この前はどこどこの大会に皆で行ったんだよ~という話を聞きながら、いいなぁ、と思った。ネットやテレビでしか見たことのない場所に、この人たちは行ってるんだなぁ、いいなぁ、と。

それでもなぜか「自分も行ってみたい」という発想がこの時の私には生まれなかった。高校大学と東京に通っていたとはいえ、通うのに3時間かかるような田舎にずうっと住んでいたからか、なにかを追っかけたりするのは違う世界の出来事のように眩しく現実感のないことだったのだ。今にして思えば、暇だけはやたらとあったし都内の友達の家を泊まり歩いたりもしていたから、追っかけようと思えば簡単に出来ていたのだけれど。当時の私はその世界を知らなかった。

 

それから数年後。社会人になり、色々あってひきこもって暮らしていた私は、漫画を買うくらいしか趣味もないような生活をしばらく送った。インターネット界隈は個人サイトからブログの時代へと推移し、かつてオフ会に参加したサイトたちも続々と閉鎖され、インターネットの人と会うこともなくなった。

そんなひきこもり生活がピークだった2006年に、のちに夫となる人に出会った。浦和レッズサポーターの夫と出会い、一緒にサッカーへ行くようになった私は、ここでようやく「現場へ行く」という世界を知ることとなる。

 

そして更に数年後、ロザンに出会った。

ロザンに出会ってからの経緯は以前に長々と書いたので割愛するが、とにかくこのことがきっかけで、私は再びインターネットと密接に関わることになった。

ロザンのことをブログに書きまくっているうちに読者が増え、「会いたいです」と声をかけてもらうことが増え、ライブに行けば誰かに会い、その輪がどんどん広がった。ライブに行きまくるものだからファン仲間とも頻繁に会うようになり、もはやロザン関係なく遊んだりするようになった。かつてフードファイターのオフ会で「いいなぁ」と羨ましく思った関係性。それを得てから私にとってインターネットはそれまでよりずっとずっと大切で、もっともっと大好きなものになったのである。

その流れの中で、私は今までのインターネット経験史上最も愛するコンテンツと出会うのだ。

 

 ◾Twitterが大好きだ

ロザンの宇治原さんが番組の企画で1日だけTwitterをやる、という情報が確定した瞬間、ロザンファンは一斉にTwitterのアカウントを取得した。もちろん既にTwitterをやっている人もいたが、基本的に年齢層が高く流行りものにすぐ食いつくタイプではない多くのロザンファンたちは、もう笑っちゃうくらい同じ日に、わかんないわかんないこれでいいの? と言い合いながらアカウントを取りお互いをフォローした。2010年1月のことである。

番組をリアタイしながら、番組のために作られた宇治原さんのアカウント(結局本当にその1日しか稼働しなかった)にリプなどを送り、祭りはあっという間に終わったが、我々ファンの日常にはそのままTwitterが組み込まれていった。

今までロザンの現場でしか会わない、むしろ現場でも会ったことのないファンの方々が、朝から夜まで誰かしらが何かを呟いている。もちろんロザンのことも呟くが他の趣味や生活のこともお話されてるのを見て、意外な共通点に気付いて盛り上がったりする。これまで「ロザンファン」としての輪郭しか見えていなかった人物像が情報量を増し、グッと色濃く実体として浮かび上がってくるような感覚が面白くて、私はすっかりTwitterが大好きになってしまった。今までインターネット黎明期から経験してきた、掲示板やmixiやブログよりもずっと適当で、好きな情報をリアルタイムで取得できて、しがらみが少なく自由なTwitterは、人間がだいすきでいいかげんな性格の私にはぴったりだったのだ。

 

実家のリビング的な感覚で毎日ダラダラとTwitterに居座っていると、オタクとの縁がずっと続いていく。ひとり、またひとりと、ロザンの沼から他の沼へとジャンルを移動するフォロワーさんが現れても、一度繋がった人のことは基本的にずっと大好きなのでリムーブすることもない。今までだったらサイトが無くなったり、ブログが閉鎖したりしてしまえば縁が途切れがちだったのが、日常の延長線上にあるTwitterのおかげでそのままネットでの付き合いは続くようになった。そうこうしているうちに、長年のフォロワーさんの影響で私はついにジャニーズに、NEWSに出会ったのである。

 

大好きなTwitterきっかけでNEWSを大好きになり、大好きなNEWSのことを大好きと言いまくっていたら、NEWSを大好きな人が集まるようになった。

ありがたいことにフォロワーが増え、実際会って仲良くしてくれる人が増え、Twitterライフはますます楽しくなった。

 

昨年からもうずっと長い間、どう考えても楽しくない話で一部Twitterが盛り上がっている。一部だったそれがヒートアップして、ついに大勢力になるまで、おめでたい私のTwitterはずうっと楽しいことしかなくて、正直そんな話があることも知らなかった。さすがに大事になったので事の経緯を調べまくってみたけれど、調べれば調べるほどバカバカしくて脱力してしまった。私の人生はおそらくもう折り返し地点くらいなので、楽しくないこと、好きじゃないことに1秒だって時間を割きたくない。仕事などの、やらなきゃいけないことに費やす時間は仕方ないけれど、好きでやってる趣味において無駄な時間を割きたくない。ただでさえ好きなもの見たいものがありすぎて時間が足りないのに!

 

というわけでどうでもいい話には興味がないので、一通り把握した後は、自分が好きなものを好き、って言うだけの今まで通りのTwitterライフを送っている。そんな私と仲良くしてくれている人は、私と同じようにおめでたいので、私のタイムラインは特に何も変わらず平和なままだ。ちなみにここ数日のタイムラインの様子はというと、手作りバター(生クリームを振って作る)作成時にふさわしいジャニ曲のセトリを皆が競って組んで、そしてバターを作成して笑っている。意味がわからないけどただひたすら楽しい日々だ。

 

とはいえ、傷付いていないのかと聞かれたら、そんなわけないでしょう、としか言いようがない。間違っても誤解をしないで頂きたいのは、私はNEWSの4人に傷つけられたなんて一ミリも思っていないということだ。私は誰かを嫌いになったり怒ったりすることがハチャメチャに苦手で、だから嫌いとか怒りの感情を表してる人を見るのも苦手である。というかその類いの感情が正確に理解できていないと言った方がいいかもしれない。「負」の感情にこんなにも怯えてしまうのは私に人間として何らかの欠落があるのかもしれないが、おそらく生い立ちとか今までの人生の積み重ねで形成された性質なのでどうしようもない。とにかく、そんな私にとって、事態を把握するためとはいえ負の感情渦巻くインターネットの大海を泳がなければならなかったのは、たたただ辛い、悲しい、苦しい、そしてバカバカしいとしか言えない時間だった。

 

それでも。インターネットで傷付いた心を救ってくれたのもまたインターネットで出会った人たちなのである。

 

morningproject.hateblo.jp

 

ちょうどメンタルがズタボロだったときにこの「小山会」が行われ、小山担の私は「正妻なのでスペシャルゲスト」として呼んで頂き、小山さんのこと、シゲちゃんのこと、てごちゃんのこと、増田さんのこと、NEWSのこと全員を大好きな人たちで寄り添い合ってハガキを書いた。みんなメンタルズタボロなのに、会ってNEWSの映像を見たらどうしたって笑顔になってしまって、ゲラゲラ笑いながらたくさんハガキを書いた。

余談だがこの日はロザンのトークライブもあって、私は小山会を一時的に抜けて新宿のルミネtheよしもとへロザンを見に行き、そしてまた終電までハガキを書くため小山会へ戻った。もう長い付き合いになるロザンファンの方々は終演後、ご飯の誘いを断って「ハガキを書きに行く」と訳のわからないことを言う私に、凄く優しい言葉をかけてくれた。誰も小山さんのことを悪く言わなかったし、ハガキを書く私をバカにしないでいてくれたし、私と同じように悲しい顔をしてくれて、あなたが好きな人なんだからきっと大丈夫だよ、と言ってくれた。

私にとってインターネットは、そこで出会った人は、かくも優しいものである。

楽しいことを分かち合い、辛いときは手を差し伸べてくれる。あるいは、遠くでそっとしておいてくれる。毎日あらゆる感情と情報が流れていく中で、どの人とどう付き合っていくか、いかようにも距離感を調整できるツール。その気楽さが本当に好きだ。

 

同調圧力」の正体は

ところでこの2ヶ月、いつものように能天気なツイートをしつつハガキを書いたりCDをたくさん買ったりしていたら、チラホラと聞こえてきた言葉がある。

「なんだか、ネガティブなことや悪いことを言っちゃいけないみたいな同調圧力を感じる」

というものだ。

 

同調圧力Twitterにいると、時々その言葉をこぼす人を目にする。

例えば2年前のNEWSのコンサート「Quartetto」の時は、セトリや演出に満足できなかった方々が「みんな褒めてばっかりで、ここが好きじゃなかったとか良くなかったとか言えない雰囲気が窮屈。同調圧力だ」と言っていた。その時と同じようなざわつきを、ここ数ヶ月も感じている人がいるように思う。

 

あくまで「Twitter上における、なにかのファンのコミュニティにおいては」という前置き付きではあるが、この「同調圧力」というものは幻だと私は考えている。

 

tounoin.hatenablog.com

 

ちょうど1年前にこちらの記事の前半部分で同じようなことを書いたので今回は長々書くのは割愛するが、調べてみると『特定の集団において、少数意見を持つものに暗黙のうちに多数派意見を強制すること』が同調圧力の定義とのことだ。なるほど、確かに直接誰かに「君の意見はおかしい!こちらに合わせろ!」と言われなくても、自分の所属しているコミュニティの大多数が自分と異なる意見を持っていたら、無言の圧力を感じることだろう。

だけどTwitterのコミュニティ、すなわち自分がフォローしている人って、自分が選んでいるんですよね、当たり前だけど。

自分の選んだ人たちの中で、自分だけが少数派だと感じてしまうようになったら、そのコミュニティ以外のところに目を向けてみればいいのではないだろうか。「少数派」と思い込んでいる意見が「多数派」であるコミュニティも、その折衷案みたいなコミュニティも、必ず存在する。そう、まさに現在の「お花畑アカ」と「愚痴アカ」のように。

Twitterなんてフォローするも外すも気楽なツールなんだから、自分が一番快適なようにカスタマイズすればいいだけの話で「圧力」なんて勝手に感じる必要はないのだ。

(だから私は別に愚痴アカの存在は否定していない。自分が選ばないコミュニティ、というだけだ)(もちろん通報対象となる差別的発言、侮辱、名誉毀損などがなければ、の話であるが)

 

とはいえ。とはいえ、だ。意見が合わなくても、それでもそのコミュニティ自体は嫌いになれないんだよ~~! ということもあるだろう。特にオフ会やらなんやらで直接会っていたり、特定の意見以外のところでは気が合うままだったり、これからも付き合いを続けていきたい相手がいるなら、尚更。

その人たちに反対する意見を言って傷付けてしまうのがこわい。その人たちに嫌われてしまうのがこわい。

 

同調圧力の正体は、あなたの優しさだ。

あなたの優しさであり、臆病さだ。

同調圧力は幻だけれど、あなたが人であり、人と関わっていきたいと考えるが故の、尊く確かな感情なのだ。

 

個人的にTwitterは、その感情を大切にしつつ、圧力から遠ざかることを両立できるツールだと考えている。

私は自分が多数派だなんて全く思っていない。むしろ少数派だろう。だからといって多数に合わせることはないし、少数派です! と自ら表明することも基本的にない。言いたかったら言うし、言いたくないことは言わない。それだけだ。「言いたいこと」と「言わないこと」の区別はわりと「これを言ったら誰か傷付くかな」という観点が入っている。言いたいけど誰か傷付けそうだからやめとこう……みたいなこともたくさんあるが、それを「圧力」とは思わない。私が言いたくないだけだ。

それと同じで見たくないツイートが時々目に入っても、それは私が見たくないだけなので「そんなツイートするな」とは思わないし、それが不条理な言いがかりなどでなければその人に幻滅することもない。ああ、私とはこれについては考えが違うんだな、と思うだけである。

 

ただ、今は本当にメンタルがフニャンフニャンなので、自分のTLに「見たくないもの」が流れてくるのを達観できる余裕がない。そのため、ここ2ヶ月ほどで本当に色々な人をミュートした。直接会ったこともあって、その人のこと自体は大好きで、これからも会いたいと思ってても、今回の件のスタンスが自分にとって辛い人たちのことはそっとミュートした。「その件については」「今は」距離を置くべきだと思うから。人と人として良い関係を続けていくために、全部が合う必要なんてないので、立ち入らないほうがいい部分は避けて好きな部分を広げていく。Twitterはそのあたりの距離感が調整できるので、やっぱり私はとても好きなのだった。

 

 

最後に。

さんざん「怒っても呆れてもいない」というようなことを言ってきた今回の諸々の件。ふわふわとしか触れていないし、この先もインターネット上で自分の考えたことを語るつもりはないが、ほんの一部だけ。

一言でまとめると「世の中には色んな世界があるからなあ」とだけ私は思った。

今までの人生経験、人脈、見てきたもの、色々なことを総合したら、そこにしか行き着かなかった。

「いい大人でお花畑の人はなにやってんだよ、若い子に、彼らがどれだけ非常識で狂ったことをしてるか教えてやるのが大人の役目じゃないのか」というようなことを言っているツイートを目にしたことがある。確かに仰る通りだ。

だけど世の中には、本当にたくさんの社会があって、仕事があって、私のようないち会社員では信じられないような「常識」の世界で生きている人がいて。どの世界の常識が正しくて、どれが正しくないかなんて、私にはどうしてもジャッジできないのだ。自分がいるこの世界以外が「おかしい」とはどうしても言い切れないのだ。

色々な世界の「常識」を、常識だからとか慣例だからで済ませていいかはまた別に議論されていくべき問題で、議論の結果変わっていくこともあるだろう。(例えば私が昔勤めていた業界は、得意先への接待が当たり前の世界だったが、現在ではルールが厳しくなりほとんど無くなっている)

ただ、自分とは違う世界で懸命に生きている人達のことを、自分の常識からは外れているからといって見下したり、バカにしたり、非難したりはしたくないなと思って私は生きている。それは、ただ暮らしているだけでは出会わないようなコミュニティの人たちと、インターネットを通じてたくさんたくさん出会って、私の知らない話をたくさん教えてもらってきたからかもしれない。

そんな私がこの件で若い世代に伝えられるのは「あなたが今いる世界だけが世界じゃないよ」ということくらいだ。

Twitterのコミュニティも、学校も、職業も、数えきれない世界がある。私たちはその多種多様な世界から自分の居場所をいつでも選ぶことができる。そして全ての世界は自分と同じ、ひとりの人間の集まりだ。そのことを忘れず、あらゆる世界に敬意をはらいたいなと個人的には考えている。

 

こう書いても言葉が足りなさすぎて、きっと私が思っていることは伝わらないし、真意とは違う風に受け取られてしまうかもしれない。誰かを傷付けてしまうかもしれないし、きっとこんなことを考えているのは少数派だろう。

だけどなんとなく書きたくなったから書いた。それ以上でもそれ以下でもなく、特別な意味もない。

 

自分の世界を広げてくれて、より愛しいものにしてくれるインターネットが、私は今日も大好きなのだった。