桐ノ院整体院

浮気どころか不倫だぞと罵られ隊

世界はむなしく、しかしやさしい

気が付けば約1年ブログを書いていなかった。

私が長い文章を書くときは、何か熱量が爆発していてよほど伝えたいことがあるか、不安定になったり惑う出来事があって気持ちを整理したい時なので、つまりこの1年は精神が安定していたということなのだろう。

こう書くと、嘘でしょ、と総ツッコミを受けるかもしれない。2020年度のNEWS担の精神が安定していたわけがない。

 

実際、あの6月にーーNEWSが突然4人から3人になった頃にーー2回だけ少し長い文章を書いた。さすがに何も触れないではいられず、しかしブログにできるほど感情の整理がついていなかったので、ふせったーのフォロワー限定公開という形で投稿した。

まとまった文章にできるくらい消化できる日がきたらブログにしよう、と当時は思っていたが、日々が過ぎていくうちに、あえて書き記すことではないなと思えてきて今に至る。今はもうだいぶ明確に自分の思いを形にできるのだけれど、おそらくこの先も特に言及することはないだろう。

私のカバーし得る範囲の世界線でもし交わることがあれば姿を見ることもあるかもしれないし、それで何か感じたことがあれば書くこともあるかもしれない。消化した今言えることはそのくらいだ。

 

さて、一方で。あの混乱の最中にあっても、私がNEWSを思う精神はかなり安定していたのも確かなのである。

なぜならNEWSの3人の姿と、それを取り巻く人々が、めちゃくちゃに信頼できて安心できるものだったから。

私たちを前へ前へと連れて行ってくれたから。

 

人数が減ったときすぐさま「3人で続けていく」と発表があった。表情は固く辛そうではあったけれど、不思議と心配や不安な気持ちは起こらなかったのを覚えている。

疫病が蔓延するこの世の中で様々な制限が課せられているにも関わらず、NEWSはその日から休む間もなく新しい姿を発信し続けてくれた。その姿を追いかけるだけで忙しく、なにより発信されるものがあまりにも心のこもった素晴らしいものばかりだったから、少なくとも私は寂しい思いをしたり惑ったりしている暇すらなかったように思う。

迷子になってベソをかいていたところにNEWSが現れて、大丈夫こっちだよ、一緒に行こう!って手を引っ張られてぐんぐん走っているうちに、気付いたらすごく明るくて温かい場所に出ていた、そんな半年間だった。

 

後ろを振り向く暇もなく走ってこられたのは、NEWSの3人が強い決意と誠実な心を持って私たちと向き合ってくれたからに他ならない。それと同時に、ただ走るだけではなく安心して、幸せな気持ちで走ることができた大きな要因は「NEWSってものすごく愛されているんだな」ということがはっきりとわかったからだ。

 

どれだけ本人たちやファンが活動を続けたいと願っても、場が与えられなければ前へ進むことはなかなか難しい。ところがNEWSの周りの人たちは、次々と3人に仕事を持ってきた。オンラインファンミーティング、音楽番組の出演、新曲の作成、Blu-ray発売、数々の雑誌掲載、エトセトラ、エトセトラ。

NEWS本人たちや私たちが強く思っていたのと同じくらい、NEWSを取り巻くスタッフ、今まで関わってきた仕事関係者の方々が「絶対にNEWSを諦めない」とがむしゃらに動いているように私には見えた。

2年前、LVEを初めて聴いたときも同じような気持ちになったことを思い出す。あの時私は、NEWSというプロジェクトに関わっている人々の反骨心とNEWSへの絶大な愛を感じて震えた。なんの証明もできない、ただの私の主観でしかないけれど、少なくとも私はそう受け止めた。今回もあの時と変わらず、強い意志と、泥をかき分けるようなパワー、そして穏やかに包み込むやさしさを感じるばかりだった。

 

NEWSは愛されている。今まで一緒に仕事をしてきた、NEWSを近くでよく見てきた方々に、これからもNEWSと仕事をしたいと思ってもらえて、そのために力を尽くしてもらえている。

そのことが明確に伝わってきたから、この半年間、不安だったり心をかき乱されることなく、ただただ新生NEWSが見せてくれるものを幸せに受け取ってこられたのだ。

 

 

*

先日、小山さんと加藤さんが、新型コロナウィルスに感染した。新曲のプロモーション、加藤さんの小説の新刊発売などのタイミングで、今年1年の中でもひときわ忙しくしていたところだった。第3波と言われる感染者増の状況で、もはや誰もがいつ感染してもおかしくない中、多忙なふたりがどれだけ毎日気を配っていたか察するに余りある。それでも感染してしまう。いま我々が直面しているのはそういう世界だ。

 

Twitterでその報を見かけた瞬間にヒュッと呼吸が浅くなり、タイムラインをスクロールする指先が冷たく震えた。動揺していたのだろう。ここで普段ならやらないことをしてしまった。

個人名だったか、「コヤシゲ」だったか。もう覚えていないけれど、トレンドに名前が入っていたのを、情報を得ようとして思わずクリックしてしまったのだ。

パッ、といちばん上に出てきたのは、かつて何度か見かけたことのある有名なアカウントだった。芸能ネタをメインに、悪意をもって揶揄するツイートを巻き散らかしているもの。さすがというかなんというか、例にもれず、この件についても悪意100%で茶化すようなコメントをしていた。

あちゃ〜〜〜失敗した、と頭を抱えた。久々に悪意に触れてしまった。ブロックしていなかった自分を呪った。

 

そうだった、思い出した。世界にはこういう側面があるのだ。

「NEWSって愛されてるなあ」と幸せな気持ちでいたこの半年間も、その前も、もうずっと長いこと悪意が渦巻く場所が存在していることは、もちろんよくわかっていた。だけどそんな存在よりずっと確かでデカくて暖かい愛の場所を知っていたから気にしてなかった。なのでけっこう本気で忘れかけていた。

 

いや、忘れていた、というのは語弊がある。正直に言えば「Twitterのタイムラインで度々、悪意が存在することを思い出していたが、自ら踏んでしまったのは久々だった」というのが正確なところである。

今回も私は、うっかり検索で現れてしまったその1ツイートしか悪意に触れていない。検索は二度としないし、ヤフコメも見ないし、フォロワーさんはNEWS担か否かに関わらずあたたかい人たちしかいないので、皆ふたりを心配し回復を祈ってくれていた。だけど同時にNEWS担のフォロワーさんたちがちらほらと怒り嘆き悲しむ様子も流れてきた。それを見て私は、ああ、またどこかで誰かが悪意を振り撒いていたのだろうな、それを見て優しい人たちが傷付いているのだな、と察する。悪意の存在をそうして思い出してしまう。

 

*

私たちは知っている。私たちの大切な人たちが、どれだけ酷いことを言われてきたかを。何をしても、何を言っても、一部の人たちの目を通したら全てバカにされ、中傷され、人格を否定される言葉を投げつけられ、その言葉はインターネットの海に漂い続ける。

私たちは知っているので、そのうち、漂うその言葉たちを直接見なくても想像してしまえるようになる。好きな人が何かを発言したとき、本当は楽しいトークのはずなのに、「あの悪意の人たちはこれをこう解釈してこう攻撃してくるに違いない」と先回りで想像して苦しんでしまう。悲しいことにその想像はだいたい合っていたりするので、「やっぱりまた悪意に攻撃されてしまった!」と絶望してしまう。

 

だけどその不安は、悲しみは、口に出してしまうと、はからずも「悪意」の存在を強調してしまうような気がしてならない。きっとまたあること無いこと言われてるんだ!と嘆くことで、そっか、あること無いこと言われてるんだこの人達は。と教えてしまう。そうして興味本位で悪意の存在にたどり着いた善意の人が、悪意に感化されてしまうことも、なくはないのだ。

私はずっとその、負の感情の循環のようなものが苦手だった。悪意の存在に嘆き憤るムーブが定期的に訪れるのが寂しかった。だって、本人たちはあんなに楽しそうにしていて、幸せを与えようとしてくれているのに。外野のことで負の感情にとらわれるのは寂しすぎる。

 

では黙って無視して泣き寝入りしろということか、 そんなことしているうちに悪意が届き続けて彼らを傷付けてもいいのか。と言われるかもしれないがそんなわけはない。度の過ぎた誹謗中傷があった時にはしかるべき場でしかるべき制裁が加わるよう声をあげるつもりだ。だけど結局それまでにできることは、粛々と通報を続けることくらいしかないのかと思う。とはいえ悪意撒き散らしアカウントには万単位のフォロワーがいるものも少なくないので、実際は通報したところで特にダメージを与えることはできない、という現実もある。我々は無力だなぁと落ち込んだりもする。

 

*

ただ、同時に「こんな悪意なんて、取るに足らない存在なのでは?」と思う気持ちも湧き上がってくるのだ。

前半、NEWSは本当に周囲から愛されている、ということを書いてきたが、小山さんと加藤さんが新型コロナウィルスに罹患したことで、よりその愛が明確に見えるようになった。

 

FNS歌謡祭ではNEWSがトリの予定だったという。その時点で既にNEWSへの愛が溢れすぎているが、出られなくなったNEWSの代わりにジャニーズの皆でNEWSの曲を歌ってくれた。ただ出演をとりやめる、なかったことにするのではなく、番組全体でNEWSへメッセージを送ってくれた。

増田さんの番組、シゲちゃんの本の出版社、小山さんを取材した雑誌、3人と関わってきたスタッフさん、作家さん、タレントさん、俳優さん、ものすごくたくさんの人が、ものすごくやさしい言葉を、エールをNEWSに送ってくれた。

 

NEWSのことを直接知っている、実際に一緒に仕事をしてきている人達がこんなにも3人を愛してくれている。どこの誰だか素性がわからない人がインターネットで彼らを貶す言葉よりも、確かな存在の方々の確かな言葉のほうが、ずっとずっと重要なのではないか。親しい人たちと、そして私たちからの愛が確かなものであることはきっと本人たちにも届いているはずで、もしかしたらそれだけでいいのではないだろうか。遠くの悪意の存在が彼らに悪影響なのではと考えてしまうことは、杞憂なのかもしれない、とすら思った。そのくらい大量の愛と気遣いを、私はこの2週間見た気がする。

彼らはやさしく、そしてそんな彼らの周りにはやさしい人たちであふれている。そして我々もその「やさしい人たち」の一員なのだ。

 

 

*

好き勝手に悪意を振りまくような人々には、その因果が巡ってほしいと思ってしまう。ネットで誹謗中傷するような人なんて、きっと友達がいなくて寂しい奴らだよ、と思いたくもなる。

だけど世界は案外そうでもなくて、そういう人も実際に周囲の人からは愛されていたりするものだ。NEWSが周りから愛されているのと同じように。

普通に友達がいて、普通に良い人で、まさかインターネットで人の悪口ばかり書いてるなんて誰も思わなかったりするのだ。もしかしたら私が大好きで慕っている友人がそういうことをしているかもしれない。

私は人を傷付けたくないと思って生きてはきたが、とても褒められるような人生ではないし、意識的でも無意識でも、誰かに対して不誠実なことや酷いことをしてしまったことはたくさんある。たくさんのやさしい人に囲まれ愛してもらっている自覚がある一方で、私のことをとても嫌いという人も少なからずいるだろう。こんな一般人の弱小アカウントですら、ごくごく稀に悪意に満ちたマシュマロが届いたりするのだから、私の数億倍たくさんの人に愛されているNEWSは、どうしても悪意の存在も多くなってしまうのだろう。そんな質量保存の法則みたいなものいらないよ、と嫌になってしまうけど、この世界というのは、おそらくそういうふうにできている。

 

世の中はかくもむなしい。人間全員が善人で愛しか持たず平和に生きていっているわけではない。誰にでも、私にも、NEWSの中にも、善だけではない何かが存在し、それが何らかの形で発露してしまって誹謗中傷アカウントのような振る舞いをする可能性だってある。自分の親しいなにかに不祥事があった時「そんなことをする人だとは思わなかった」「見る目がなかった」と嘆く言葉がでてしまいがちだが、誰だって「そんなことをする」可能性があるのだ。

だけど同時に、そうやって人を信じることは、人間のもつ「善」のひとつだとも思う。信じることはやさしさだ。

 

 

NEWSはやさしい。それはNEWSが、自分たちを、自分たちの愛するものを信じているからだ。そんなNEWSを取り巻く人々は、NEWSのことを信じているから、やっぱりやさしい。そういう人たちを見ている私たちも、やさしくなれる。

そのようにお互いのやさしさが干渉しあうことで、善だとか、愛だとか、そういうエネルギーの方が自分の中で大きくなって、心の中の「悪」の存在が薄くなっていく。やさしさが増えていく。

 

 

こやまさんとシゲちゃんが回復した、というニュースを聞いて、泣いてしまった。

ふたりの熱が上がったと聞いたときには自分の身がズタズタになるくらい辛かった。子供のいない私は母性と言うものを知らないが、きっとこれはそういう気持ちに近いのかもしれない、と思った。掛け値なしに、自分の存在以上に、心から愛しく愛しく思う人たち。私がNEWSを思う気持ちって本当にやさしいな。私はこのやさしさを知ってる私のことが好きだな、とうれしくなった。

 

このむなしい世の中で、こんなにもやさしくなれる方法を教えてくれたやさしいNEWSに出会えたことがうれしい。

 

こやまさん、シゲちゃん、おかえりなさい。

増田さん、私たちに寄り添ってくれてありがとう。

 

 

これからもNEWSと共に、やさしい気持ちで。