桐ノ院整体院

浮気どころか不倫だぞと罵られ隊

晴れの空に抱かれて

f:id:tounoin:20210710145410j:plain

 

病室の窓からは千葉の海が見えた。空はずっと雨模様だった。

 

 私は長期的な記憶力が著しく劣っている。学生時代の同級生と修学旅行の話なんかをしても私だけ何一つ覚えていないし、当然もっと幼い頃の記憶などほぼ皆無なので、母は生前よく「あんたが小さい頃、色んな所に連れて行ってあげたのになーんにも覚えてなくて悲しい」とぼやいていた。

そんな私でも、当時の記憶を詳細に覚えている出来事がいくつかある。ある時は夏休みの宿題で、ある時は趣味のブログで、自分の気持ちを文章として残している場合だ。

 父親が死んだ9歳の時も、初めて飼った猫が死んだ15歳の時も、洗脳されるほど好きだった人と別れた26歳の時も、私はその時の感情を文章に残していた。時々それらを読み返し、そうだこんな風景だった、と当時のことを思い出す。テスト勉強に大切なことが「復習」であるように、自分の書いたものを繰り返し読むことで記憶が抜けていかないように定着させている。勿論、たとえば「父が死んだ」という事実はそんなことをしなくても忘れるはずがない。しかし、休み時間に担任の先生から知らされて「うそっ」と喉から飛び出した声が思いのほか大きく階段の踊り場に響いて気まずくなったことや、病室へ駆け付けた時に中に入るのを一瞬ためらって、入口の白い壁に目をやって呼吸を整えたことなど、当時の細かな感情や景色は、そういう描写として残された文章を読むことで補完されるのだ。

 

今から私は、人から見たら「そんなことわざわざ書かなくて良いのに」と思われるであろうことを書く。

昔のことをどんどん忘れてしまう私が、いつまでもこの記憶を、風景を、感情を、できるだけ細かく覚えていくために。私だけのために書く。

 

では自分だけが見られる日記帳にでも書けばいいではないか、というところではあるのだが、高校時代の恩師の「この世の文章は、たとえ日記でさえ、誰かに読んでもらうことを想定されている」という説をわりと信じているので、こういう場所で書くことにした。私のためだけに書く、だけど誰かひとりでも読んでほしい、私のために。

これはそういうエゴだけの文章だ。

 

 

 

 ここ数カ月、私は妊婦だった。

 はじめての我が子は、生きて生まれてくることができなかった。

 

 

 

 ここからは、死産についての詳細な話を綴っていく。いま妊娠されていて不安を覚える方、かつて悲しい経験があり辛い記憶を呼び起こしてしまう可能性がある方など、色々な立場の方がいらっしゃると思う。そうでなくてもショッキングで生々しい描写が出てくるので読んで気分を害されることもあるだろう。どうかそういう方は地雷を踏み抜く前にここから先の文章を避けていただければ幸いです。

もし読んでくださる方も、信じられないくらい長文であることを予めご了承ください。本当にダラダラと順を追って記憶を書き留めるだけの、まとまりのない文章なので。

 

 

 33歳の時に1つ年上の夫と結婚したが、Twitterやブログでも公言していた通り、我々夫婦は子供を持たないという選択をした。誰かから子供のことを問われれば「うちはDINKsDouble Income No Kids)なので」と答えていた。

理由はいくつかあったが「絶対絶対欲しくない」という確固たる意志というよりは、いない方が諸々好都合だよねぇ、という消極的でふんわりした感覚が3割くらいと、経済的な考えが7割からの結論だった。

ところが3年前、理由の大部分を占めていた経済的な状況に変化が訪れた。そこで改めて夫と話をしたところ、「まあ、今後は避妊はしなくてもいいか」という流れになった。

その時点でもう私は38歳になるところだったので、あなたが子供を欲しいなら私も賛成するけれど、年齢も年齢だから避妊やめたくらいでは出来ないと思うよ?と伝えると、別に不妊治療まではするつもりがない。自然にしていてできたらそれでいいし、できなかったらできなかったで今まで通りの生活が続けられるのだからかまわない、との返事が返ってきた。

それを聞いて正直私は、ラッキー、と思った。自分がマトモに生きていないのに、子供なんて育てられるはずがない。どう考えてもこの先の人生、子供をもたない方が自分のためにも世の中のためにもなる。唯一の気がかりは夫の気持ちだったので、もし夫が本気で欲しい素振りを見せてきたら、夫のために産もう、と考えていた。

しかし夫はそれ以上動くことはなかった。毎月、生理がくればそれとなく伝えていたため、本気で欲しいなら排卵日くらい気にしてくるのではと考えていたが全くそんな発想はないようだった。そもそも出会って10年以上経つアラフォーなので性生活自体がほとんど無い。「避妊はしないが、かといって子作りするわけではない」というのが我々夫婦の実態だった。

 

そんな感じで更に月日を重ね、40歳という年齢が近付いてきた頃から、私の体に明らかな変化が現れた。今まであまり重くなかった生理痛が酷くなり、毎月不正出血がおこる。38日前後と長かった生理周期が28日くらいになる。検診では子宮筋腫を指摘され、月の半分くらいは下腹部に不快感、という状態になった。

ああ、もう40歳だものな、女としての役割が終わりを迎えつつあって、ホルモンが暴走してるのかな。と、実感した途端、なんだか急に胸がザワザワし始めた。

 

私って、まだ妊娠できるのかな。このまま一度も妊娠しなくて本当にいいのかしら。

 ふとそんな思いがよぎる。いやいや何考えてるんだ、子供ほしくないし。子供苦手だしいらないって思ってたじゃん、とすぐに打ち消すが、不正出血を見るたびモヤッとした気持ちが発生する。検診は受けている。小さめの筋腫以外に問題はないと言われている。健康に不安はないはずなのに「40歳」という年齢と「リミット」という言葉が目の前をチラつく。

なんとなくモヤモヤした気持ちを持てあまして、40歳を過ぎた頃に婦人科を受診した。そこは不妊治療を専門に行っているクリニックで、卵子の数など妊娠可能性についての検査が出来るところだった。

結果として、私の卵子の残量は年相応。つまりほとんど残っていない。妊娠の可能性が無いわけではないが、もし子供を望むならタイミング法とかすっとばしていきなり体外受精を検討すべき、ということだった。それもリミットは43歳まで。それ以上だと確率もほぼなくなり、国からの補助金もでない、と。

 あなたもう妊娠できませんよ〜と言われたらスッキリするかなと思っていたが、どうやら微小ながら可能性は残されているらしい。

ますますモヤモヤするようになったが、私はこれを夫に伝えることはできなかった。なんとなく、子供のことについて話をすることから逃げていた。こんな話をして、子供が欲しいと思われたくない、という気持ちがあった。夫が本気で欲しがらなければ私はいらない、と、自分に言い聞かせていた。

 多分、お金もないのに自費で検査をしたくらいだから、この頃から私は子供を欲しい気持ちが生まれていたのだと思う。だけど今更だから。もう40だから。夫もそれほど乗り気じゃなさそうだから。と、言い訳をして、向き合うことから逃げていた。

 

夫とは生活リズムがズレていたので、この頃には寝る時間も寝る場所もバラバラだった。当然性的な接触も数カ月単位で無かったので、変わらず何事もない日が続いていく。そうこうしているうちにコロナが蔓延したり親が死んだりして、なんだかもうそれどころじゃなくなってしまった。

あ〜なんか一瞬子供欲しかったような気がしたけど、気の迷いだったな。どうせこの年でこの生活でできるわけないし、これからも変わらず好きなことして生きよう〜〜と、元来の能天気さを取り戻したタイミングで、生理が遅れていることに気がついた。

 

 そういえば、親が死んだあとのゴタゴタが片付いた頃、久々に土日ゆっくり夫と過ごせた日があった。振り返ってみれば排卵日あたりだった気がする。

まあ生理が遅れることはよくあるしな、と、予定日から1週間くらいは様子を見てみたが、なんというか明らかにただの遅れと雰囲気が違う感覚があった。

 

 本能的な確信をもって、検査薬を買った。

秒でバリバリの陽性反応が出た。

40歳と8ヶ月。人生初めての妊娠だった。

 

 

 *

検査薬にくっきりと現れた陽性の証を見た瞬間、わけがわからないくらい、とてつもなく膨大な「うれしい」という感情に襲われた。自分でも驚いた。私が、子供ができて、うれしいと思うなんて! 子供の頃から子供が苦手でずっと避けてきたこの私が!

今まであんなにも「子供はいらない」と考えていたのが嘘のように、とにかくこの子を無事に生みたい、そのためならなんだってできると思った。私に子育てなんかできるわけないしやりたくない、とずっとずっと考えてた気持ちが、一瞬でどうでもよくなった。生むし育てる。それしかない。その感情以外が消え去る。

 

一方で、この命が無事に生まれてくる保証はどこにもない、ということも冷静に理解していた。

医療従事者でこそ無いが、幼い頃から医学関連の本を読み漁り、会社員生活の大半を病院に出入りする業種に従事していたため、おそらく一般の人よりも医学的な知識はある方だ。それゆえ、今まで子供をもつ気持ちが無かったとはいえ、妊娠したからといって皆が無事に出産できるわけではないことは、よくわかっていた。

 

なんといっても超高齢である。40歳の流産率は40%なんていうデータも見たことがある。

受精して着床しただけでも宝くじに当たったような気持ちだったが、パチンコで言えばまだリーチがかかっただけの状態で、当たりの確定演出ではない。この受精卵が順調に育ってくれるかどうかは、生まれるまでわからないのだ。

 

 ところで、日常のあらゆることをTwitterに書いてしまう重度ツイ廃の私ではあるが、昔から決めていたことがあって、それは「もし子供を生んでも育児や子供の話はネットでしない」ということだった。子育ての話を書いている方のツイートやブログは大好きで楽しく見ているが、自分がそのような話をすることを想像したら非常に抵抗がある……というか似合わない気がした。無事に生まれたら「実は子供生みました〜」という報告だけして、あとは子供のことは一切呟かず、それまでと変わらずジャニーズやお笑いや料理の話だけ呑気に繰り広げる謎の自由なおばさんでいたかった。

 

「無事に生まれてくるかは、生まれるまでわからない」という危機管理意識と、上記のような信念めいた感情もあり、子供についてのことは明かさないままでいることにしたのだが、やはり正解だったなぁ、と今しみじみ感じている。

 

 

 *

検査薬で陽性反応が出た週末に病院へ行き、エコーの結果無事に妊娠が確認された。まだ6週だったので心拍は確認できなかったが、とりあえず子宮外妊娠などではなく、正常に子宮の中に胎嚢(受精卵の入った袋)があることがわかったので第一関門通過、といったところである。

 

その夜、夫へ報告をした。

びっくりなんだけどさ、妊娠したよ。と言うと、

「おぉ、できたのかぁ」と飄々と返された。まるで「ごはんできたよ」への返事みたいに、普通のテンションで。

予定日は今のところ12月4日だよ、とか、まだ初期だから流産する可能性も全然あるので覚悟もしておいてほしいとか、それにしてもこの年でまさかできると思わなかったよね、とか、しばし話をしていたら、夫がポツリと「俺もとうとう父親か〜」と呟いた。

変わらず普通のテンションで、淡々としていたけれど。

ああ、多分この人、すごくうれしいんだな。本当は父親になりたかったんだな、ということが伝わってきた。

私がもっと早く子供をもつことと向き合えていたら、もっと早く、少しでも若くリスクが少ないうちに妊娠していたのだろうか。もっと早く夫を父親にしてあげられていたのだろうか。いや、でも結局いましかなかったのだ。私達夫婦にとってこのタイミングしかなかったのだ。

天から来てくれたこの子を、なんとしても無事に生んであげたい。夫とふたりで生きてきたけれど、これからは3人で生きていきたい。改めて強く思った。

 

翌週また病院へ行くと、心拍が確認できた。エコーを見てもまだヒトの形ではなく、ただの丸い影なのだけど、ドゴンドゴンという早鐘のような音の心拍が聞こえて驚いた。すごい。生きている。生命が自分の体の中にいる。

おめでとう、妊娠してますよ〜。と改めて先生から伝えられる。自然妊娠?と聞かれ、そうです、妊活とかもしてなくて。と答えると、ちょっと驚いたような反応をされた。やはりこの年で何もアクションを起こさず妊娠するのは珍しいのかもしれない、だとしたらこの子は、私と夫になにかを伝えるために、奇跡的に来てくれたのだ、なんてスピリチュアルなことを考えてしまう。

 

妊娠が確定したので市役所へ母子手帳をもらいに行く。書類に「妊娠がわかった時どう思いましたか」という質問の欄があり、うれしかった、困惑したなどいくつかの選択肢があった中から「驚いたが、うれしかった」を選んだ。

面談してくれた保健師さんが「予定外だったけどうれしかったんですね、それはとてもよかったですね」とめちゃくちゃ優しく言ってきたのでなぜか泣きそうになった。そうなんです、子供を持つ気はなかったのに、ほんとにほんとにうれしくて。と答えながら、私は今まで味わったことのない種類の感情で満たされていた。それは一言で表せば「幸福」という類のものだったが、今まで知っていたどの幸福感とも違っていた。

 

 

 *

「9週の壁」という言葉がある。流産の多くは妊娠9週までに発生するのだそうだ。

妊娠してからというものの、1週間が過ぎるのが異様に遅く感じられてもどかしかった。毎日毎日、トイレに行くたびに、どうか出血などしていませんようにと祈る。今日も生きていてくれますようにと祈る。とにかく早く9週を超えてほしい、早く診察の日が来て生きていることを確認したい。

ただ、あまり不安だ不安だと思いすぎることもしたくなかった。初期の流産は誰が悪いわけでもなく「育たない運命の受精卵だった」という自然淘汰なのだから、誰にでも平等に起こりうる。もしそうなってしまったら、受け入れるだけのこと。その時に折れないだけの心構えを持つこと。毎日、無事を祈るのと同時に、覚悟を固める作業も行っていた。食べ物や生活も気にしすぎないように心がけ、極力いつもと同じように趣味を楽しみ、不安やストレスを抱えないように暮らしていた。

 

 妊娠10週と0日、待ちに待った検診の日。どうかどうか無事に生きて育ってくれていますように、と祈りながら診察台へ上がる。

うん、元気ですよ〜。という先生の声に一気に力が抜けた。エコーのモニターを見ると、ただの輪っかのようだった卵は形を変え、ちょっとだけヒトっぽくなっていた。心臓は相変わらずドゴンドゴンとすごい早さで(胎児の心拍数は早い)動いている。

血液検査の結果も全部問題ないですね、風疹の抗体もあるし感染症もないです。じゃあ次は1ヶ月後に。ということで、5分で診察は終了した。予約をしても1時間以上待つ割にはあまりにあっさりしているが、異常がなくて早く終わっているのだから非常にいいことだ。

とにかく9週を越えた。少しだけ安心した。次なる関門は12週である。12週を超えれば流産の危険性は更にグッと下がる。次の検診は1ヶ月後、14週0日の日なので、そこで無事を確認できたら義両親にも報告しようと決めた。

(義両親が本当は孫を望んでいることを知っていたので、ダメだったとき悲しい思いをさせてしまわないように、安定期頃までは黙っていることにしていたのだ)

 

時の流れを異様に遅く感じる日々がまた始まった。早く、早く1ヶ月経ってほしい。毎日をじりじりと過ごし、11週、12週と経過した。出血や腹痛などは起こらなかった。幸い、つわりはそんなに重い方ではなかったが、それなりに悪心やめまいなどがあり体調は悪かったので、つわりの症状があるということはお腹の子が生きているということだ、多分そうだ、という希望的観測だけで毎日を過ごした。

そのうち、手持ちのジーンズが入らなくなるほどお腹が出てきた。2着だけ持っていたウエストゴムのスカートでしのぎながら、また少し安心をする。お腹が出てきているということは、育っているということだ、きっと。

次の検診が終わったらマタニティウェアを買いに行こう。

義両親への報告、マタニティウェアの購入、会社の人事への産休・育休申請。「次の検診が終わったらやることリスト」がどんどん増えていく。夫は、一緒にキャンプ行きたいから男の子がいいな〜、でもまあどっちでも俺たちの子ならキャンプ好きになるか!なんて言い出した。着々と「未来」を見据える時間が増えていった。

 

ダメだった時の覚悟を決めておこう、という不安な気持ちを忘れた日は決してない。なかったが、12週を越えたあたりから、若干心に余裕が出ていたのは確かである。

いちばん危険な時期は脱した。奇跡的に来てくれた命なのだから、きっと生まれてくるに違いない。死んだ母親も守ってくれている気がするし、40歳の子宮っていうこんなボロ家にやってきて、文句も言わず10週もすくすく育ってくれたのだから、強い子に違いない。言霊を信じている私は、大丈夫、きっと元気に生まれる、と思うようにしていた。

 

長い長い4週間がようやく終わり、検診の日が訪れる。

 

 

 *

私の通っていた産科はものすごく混んでいて、先生はいつも時間に追われている感じだった。診察室へ入ってすぐ診察台に寝かされ、ババっとエコーをし、はい大丈夫です〜、で終了。漫画「コウノドリで見たような丁寧な聴き取りなど皆無だったが、個人的には先生のサバサバした感じが気に入っていたので問題なかった。

その日の検診も、はいじゃあお腹見ますね〜と寝かされ、あれよあれよとジェルを腹にぶちまけられて、すぐに画像がモニターに現れた。あ、すごい。めちゃくちゃ人間になってる。頭も手足もあってコロンとしてる。かわいい。

 

すごいなぁ、大きくなってるなぁ、と思った瞬間、先生が口を開いた。

その時の先生の声色が、いつまでも耳に残っている。

 

「あ〜……桐ノ院(仮名)さん、ごめーん…… 赤ちゃん元気なんだけど……」

 

 ごめん?

ごめんって何だ?

もしかして、心拍止まってるのかな。あ、でも、赤ちゃん元気なんだけど、って言ったよな? じゃあ生きてるか。けど、けどってなんだ???

 

 「元気なんだけど、胎児浮腫だぁ。前回はわからなかったなぁ……」

 

はぁ。

間の抜けた返事をしてしまった。タイジフシュ。フシュは多分浮腫だろう。つまり、むくんでいるということか。元気なんだけど、ってことは、深刻なことではないのかな?

 

「ほら、これが赤ちゃんなんだけど、全体が膜みたいに分厚くなってるでしょう。これ全部水なの。体中が水の膜で覆われてるみたいな感じなの。多分先天性の心疾患か、染色体異常か、わからないけれど……」

 「えーっと、むくんでいる、ってことですよね。えっと、心臓は動いてるんですよね? 生きてるんですよね?」

「うん、今は元気だよ、ほら」

 先生が心拍の音をスピーカーで出してくれる。4週前と変わらずドゴンドゴンと力強い音がする。よくわからない。ええと、すみません、つまり、どういうことですか?

 「……多分このままだと22週……22週っていうのは、早く生まれてきちゃった時に、助かる可能性があるギリギリのラインなんだけど、22週より前に亡くなってしまうと思う。17週、18週くらいかな……。もし22週を超えられても、出産に耐えられなくて生まれるときに亡くなってしまうと思うし、奇跡的に生まれてきたとしても、後遺症なき生存は出来ないです」

 

 先生の言葉があまり処理できないまま脳を通り過ぎていく。さっきまで「赤ちゃん元気なんだけど」という言葉にひっぱられてたいした異常ではないと思っていたが、どうやら違うらしい、ということが、必死に脳の回路を繋いで徐々にわかってきた。

つまり、この子は。生まれてこれない運命の受精卵だった、ということだ。

9週も12週も越えられたけれど。越えられたのに。こんなに人間の姿に成長したのに。

 

 いきなりこんなこと考えられないと思うから、ゆっくりでいいけれど。と、前置きをしつつ、先生は「これから」の説明をする。

 「今回は残念だけど妊娠継続を諦めるということであれば、中期中絶という形になります。で、もう14週だから、中絶と言っても簡単なことではなくて、普通のお産と同じように生んであげなければいけないんですね。入院して、子宮口を開いて、強い陣痛促進剤を使って陣痛を起こして出産するわけです。まだ命があるのに……という気持ちに勿論なると思うけれど、桐ノ院さん、もう41歳になるからね……。次の妊娠を望む場合、できるだけ早く生理を復活させるには、できるだけ早く、という考えもあります。

 あるいは、命があるうちは抵抗がある、できるだけお腹の中で育ててあげたい、ということであれば、お腹の中でお亡くなりになった後に、亡くなった赤ちゃんを生んであげるということになります。

いずれにしても処置の方法は一緒で、陣痛を起こして出産するという形です。で、申し訳ないけど、うちの産院ではその、陣痛を誘発するための強いお薬は扱ってないので、大きい病院に紹介するからそちらに行ってもらうことになっちゃうんだ」

 

 知ってる。中期中絶、あるいは死産のことはコウノドリで読んだから知っている。お産と同じ痛みと苦しみを味わうけれど、産声を聞くことは出来ないという辛い回だった。ああ、私、あの話と同じ経験をすることになるのか。あれ、何巻だったっけな。帰ったらもう1回読み返さなきゃな……。

 はい、はい、と返事をしながら、どこか上の空になってしまった。先生が、大丈夫? ショックだよね。と聞いてくる。

 「そうですね……。なにしろ高齢なので、何がおこるかわからない、っていうのはずっと覚悟していたんです。特に初期の流産はいつ起こってもおかしくない、って思っていて。でも、問題なく12週を越えたことで、最近は少し安心していたところだったので……」

 先生は、ご主人とも色々話をして決めてもらって、どうするか2週間後にまたお話しましょうと言って次の予約枠を押さえてくれた。今までの検診はコロナの影響で夫の立ち会いが認められていなかったが、外来終了後の時間を割いてくれるため、夫も一緒に行ってもいいという許可がでた。ご主人にも最後にエコーを見てもらいましょう、と。

 

 病院から家へと戻りながら、仕方ないよね、と何度も自分に言い聞かせる。こういう運命の子だったのだ。頑張ってここまで大きくなってくれたから期待してしまったけれど。受け止めるしかない。妊娠出産にはそう少なくない頻度でこういうことが起こる、ということは最初から理解していた。

帰り道、住宅街を通るのでたくさんの子供とすれ違う。この子たちはたくさんの奇跡が重なって、無事にこの世に生まれてきた子たちだ。私にもその奇跡が起きてほしかったなあ、と、ぼんやりした頭で思う。

 

 帰宅して、スマホで「胎児浮腫」について検索を繰り返した。何を見ても、先生から聞いた説明通り。大抵は子宮内で死亡し、出産できたとしても生存率は非常に低い―――。

夫から「今から帰るけど何か買い物ある?」と電話がある。特にないと答えるのが精一杯で、夕飯を作る気持ちにもなれず、ただボーッと座り込んでいたら、あっという間に時間が経って夫が帰宅してきた。

 

「どうした? 具合悪いのか?」

 

 ―――赤ちゃんね、ダメだった。

 

 口に出した瞬間、今まで出ていなかった涙がドバっと溢れてきた。

 

「そっか。ダメだったかぁ」

妊娠を告げたときと同じ、淡々としたテンションで、夫が呟いた。

 

今はまだ生きてるんだけど、心臓が悪いか、染色体に問題があるかなんかで、あと何週間かしたら死んじゃうんだって。それで、まだ生きてるけど早めに中絶をするか、いつになるかわからないけど、お腹の中で死ぬのを待って……待ってって言い方はどうかと思うけど、死んじゃってから出してあげるか、どっちか選ばなきゃいけないんだって。

 泣いてしまって途切れ途切れにしか喋れないが、なんとか状況を伝える。

 「わかった。とにかく、梓の負担が少ない方にしてほしい。少しでも負担が少ないのはどっちなのかな」 

 処置内容はどちらも変わらないから体の負担はおそらく大差がないけど、年齢のことや、いつ赤ちゃんが死んでしまって入院になるかわからないなか仕事をすることなんかを考えると、本当は早いほうがいいとは思う。ただ、まだ生きてくれてるから気持ちの整理が難しい。そんなようなことを話し、ひとまず2週後、一緒に先生の話を聞いたら最終的な回答を出そうということになった。

休んでなよ、食えたら食えばいいからと言って、夫は冷蔵庫の余り物で夕飯を作ってくれた。そしてふたりでサッカーを見て、バラエティ番組を見て笑って、いつもと同じように過ごした。

深刻にならないように振る舞っていたが、寝ようとして布団に入ったら抑えていた感情が再び爆発してしまう。夫は言葉少ないながら、私が落ち着くまで優しくなだめてくれた。大丈夫、大丈夫だから。と繰り返し言ってくれた。

 

今までの人生で、これよりもっと泣いた出来事もある。鬱病を患って、死にたいと思っていたこともある。今日はごはんを食べて、笑ってテレビを見ることもできたけれど、これ以上に悲しいことなんてひとつもなかった。

こんなに悲しいことがこの世にあるなんて知らなかった。

 

 

 

 *

仕事をしていても無意識にお腹に手を当てる。そして心で話しかける。ごめんね、体が浮腫んで心臓も苦しいよね。だけどもうちょっとだけ頑張ってね。あと2週間したら、あなたのお父さんにエコーを見てもらえるから、どうかそれまで頑張って生きてね。

1度だけでも、夫にこの子が生きている姿を見せてあげたい。一緒に診察に行ったときに心音を聞かせてあげたい。この2週間はただそれだけを考えて暮らしていた。

 

 6月21日月曜日、妊娠週数16週2日。夫と一緒に産院を訪れる。

エコー画像が映ると、心臓がピコピコ動いているのが見えた。

ああ、生きていてくれた。今日まで頑張ってくれた。

心音も聞かせてもらって、わかる?と 夫に聞くと、わかる、生きてるなぁ。と呟いた。

エコーで見た姿は、2週間前にも増して、素人目にも明らかにわかるほど浮腫が進んでいた。心不全を起こしてポンプ機能がうまくいっていないことが目に見えてわかる。腹水も溜まっていて、これは生きて生まれるのは難しいだろうな、というのが理屈抜きで実感できてしまうほど痛々しかった。

 2週間前と同じ説明を先生から受ける。

もう助からないと理解できました、夫にも生きている姿を見てもらえて踏ん切りがついたので、妊娠継続を諦めることにします。と伝えた。

先生はその場ですぐ、大きな病院の産科に電話をかけ受け入れ可能か確認して、紹介状を出してくれた。

 「最近は芸能人なんかでも、40歳以上の出産の話題がよく出るでしょ。それだけ、珍しいことじゃなくて当たり前のことになってるんですよ。今回は残念なことになってしまったけど、高齢だから必ずこういうことが起こるわけじゃないし、無事に生まれてくる子はたくさんいる。全然まだ次の妊娠の可能性はあるから、僕は産科医として、怖がらずにこれからのことを考えていいんだよとお伝えしたい」

 普段は忙しくて無駄な会話をしない先生が、手を膝に乗せてこちらを向いて一生懸命に話をしてくれた。精一杯励ましてくれていることが伝わってきて有り難かった。

今までのお礼を伝え、産院を後にする。お会計の時、分娩予約金(この病院で出産しますよという予約金を前払いしていた)が返金されてきて、そっか、もうここで生むことはないのか、と実感した。ちょっとお高めだけど、地域でも評判の綺麗で快適な産院らしいから、出産の時を楽しみにしていたのだけどな。

 

 紹介された病院に予約の電話をすると、先生が直接連絡をしてくれていたおかげで話が通っており、できるだけ早く来てくださいと言われた。4日後の金曜日に予約を取り、会社との調整などバタバタ過ごしていたらあっという間に当日になった。今まではあんなに1週間が長く感じられたのに、急に時間の流れが早くなった気がする。お腹の子と別れなければいけない日が凄いスピードで近付いてくる。本当はもっと長く、できるだけ長く一緒にいたいのに。

 

 

 *

6月25日金曜日。妊娠週数16週6日。

紹介された病院の診察台に横たわりエコーを受けるが、なんだかやたらと時間がかかる。ずいぶんと丁寧に見るんだなぁ、まあ前の産院の先生がいつも猛スピードだったからな、と思いつつ、先生は無言だし私の位置からモニターは見えないので話しかけてみた。浮腫がすごいですよね、いまどんな状態ですか?

 「うーん……前の病院での診察って、いつでしたっけ?」

「月曜日だから4日前です」

「その時って、赤ちゃんの心拍どうでしたか?」

「月曜日は心拍ありました。……えっ、もしかして今もう無いですか?」

 先生はカーテンを少し開けて、モニターをこちらに見せてくれた。

「この辺りが心臓で、動いていれば画面が点滅みたいになるはずですが、見当たらないですね……」

確かに、月曜日に確かにピコピコしていた場所に動きがない。

心音のモニターに切り替えると、いつもはドゴンドゴンという凄い音と共に、心電図の波が表示されるのだけど、「サーーーッ」という静かな音が流れ、波のない平坦な線が続いていた。どこからどう見ても「生命」の気配が消えていた。

 念のためのダブルチェックなのだろう。他の先生も呼ばれて、医師2人で画面を確認し、死亡していることが結論付けられた。

それを聞きながら私は、悲しみよりも、我が子に対する不思議な感動の方が勝っていた。

お父さんに心臓の音聞いてもらうまで頑張ってね、生きてお父さんに会おうねって毎日毎日言い続けたから、月曜日まで頑張って生きていてくれたんだ、きっと。

そして、命があるうちに中絶をすることに葛藤していたのを見透かしたかのように、この僅かな間にその幕を閉じてしまった。なんて、なんていう子なのだろう。

 

 医師の説明文書は中期中絶のものが用意されていたので、先生が「中期中絶」の文字ひとつひとつに二重抹線を引き「分娩誘発」と書き換えながら説明をしてくれる。入院して、器具で子宮口を開いて、薬で陣痛をおこして出産します。こんなリスクがあります、云々。知識として知ってはいるが、改めて聞くとやはり怖い。痛いんだろうなあ。出産の痛みって子供に会えるって気持ちでなんとか頑張れるって聞くけど、お別れのための痛みはしんどすぎるなあ。

 「土日からの入院はできないので、月曜日から入院してください」

 急すぎて驚いた。産後そのまま8週間の産休を貰う(なんと死産でも産休は取れるのだそうだ。全然知らなかった)ことが決まっていたので、さすが休みに入る前に1度会社に行っておきたい。

死亡した胎児からの分解成分が母体に影響を与えるため、できれば早く処置をしたほうが良いらしい。とはいえ諸々準備もしたいので、6月30日の水曜日から入院ということで交渉し、OKを貰った。

 

 週明け、会社へ行き荷物をまとめ、関係各所に長期休みの挨拶をする。

帰りがけ、妊娠発覚からずっと気遣って支えてくれた上司が、手紙とお守りをくれた。突然休むことになって凄い負担をかけてしまうのに、あまりにも優しくて帰りの電車で少し泣いてしまった。本当に、夫含めまわりの人たちには感謝しかない。

 8月末までの長い休みが始まった。きっと、あっという間に過ぎてしまうのだろうけれど。

 

 

 *

 6月30日。入院初日。

朝10時半までに受付をすればいいとのことだったが、夫の出勤ついでに車で送ってもらったため8時前に着いてしまい、受付が開くまで40分くらい待機。受付を済ませると看護師さんが迎えに来てくれて病室まで案内される。通された窓際のベッドからの景色は一面の海だった。普段は綺麗に富士山が見えるらしいが、あいにくの雨模様だ。

9時に処置室に呼ばれ、入院患者は必須とのことでまずPCR検査を受けた。(この結果は結局退院まで何も言われなかったが、まあつまり陰性だったということだろう)

 

午前中から子宮口を開く器具を挿入し、午後にまた器具の量を増やすらしい。私が仕事をしているのを気にしてか、早く処置を終えて退院したいよね?と聞かれたので、しばらくお休みをもらったので全然急いでないですよと答えると、それならゆっくり子宮口を開いたほうがより安全なので、前処置に2日かけて明後日分娩の予定でいきましょう、と提案された。そうなると、7月2日がこの子の誕生日になる。私が8月2日生まれだから、ちょうど1ヶ月違いだなぁなどと考える。

 予めネットで体験談をいくつか読んだのだが、とにかくこの前処置がめちゃくちゃ痛いと言っている人が多かった。診察台に上がって横たわりながら、すみません心の準備のために聞きたいんですけど、これ痛いですか?と言うと、我慢できない程じゃないですよ〜と返された。

 処置が始まってみると、なるほど確かに我慢できない程ではない……が、膣の入口から結構な勢いでギュウギュウ何かを入れられる感覚の後、内蔵を捻りあげられているような不愉快な痛みが続いた。後から調べたら子宮の入口を鉗子で掴んでいたようだ。そりゃ痛いって。

ダイラパンという、水分を吸って膨らむ棒が挿入される。これが膣の奥でどんどん膨らんで、ゆっくりと子宮口を拡げていくわけだ。最後に、生理食塩水でビショビショのガーゼが奥の方に入れられる。この水分をダイラパンが吸うらしい。15分くらいだろうか、かなり長い時間に感じられた処置が終わった。ガーゼの水分が少し出てくるとのことでおりものシートをセットし、病室へ戻る。鈍い生理痛のような痛みはあるが、この時はまだ余裕があり、呑気に昼寝をしたあと昼食をモリモリ食べた。ちなみに古い市民病院なので食事はイマイチで、この日の昼食は温度30℃くらいのちゃんぽん(麺はソフト麺だった。

 

 合間に看護師さんが来て「赤ちゃんにしてあげたい事のリスト」を持ってきてくれた。手型や足型を取る、母乳をあげる、写真を撮る、などなど。16週で死んでしまっているので小さいし、浮腫で皮膚も脆いためおそらく手型や足型は取れないだろうと予想できたが、できるようであればやれることはやりたいです、と希望する。

前の産院の先生から「全身が水膨れのような状態なので、産道を通るときに皮膚が剥けてしまい、綺麗な形では生まれないかもしれない」と聞いていたので、手型はおろかヒトの形を保って出てくるかも不安なんですけど、と伝えると、浮腫があってもそんなに酷い状態になることはほぼ無いから大丈夫だと思いますよ、と教えてくれて少し安心した。

 

 16:40、再び処置室へ。ダイラパンを追加。(多分午前中は2本だったのが5本に増えた)

午前中の処置と比べ物にならないくらいの激痛。処置中もめちゃくちゃ痛いし、入れたあとも生理痛が凄く重いときのような痛み。病室へ戻って、いってえええええ!とエビのように丸くなりながらも、テレビをつけて17時からのテレ東音楽祭を確認することは忘れなかった。トップバッターのHiHi Jetsが最高に可愛くて少し癒やされたがとにかく腹が痛いのでテレビを消してまたしばらく丸まる。

横になってひたすら耐えていたら徐々に痛みは落ち着いてきて、夕飯を完食し、テレ東音楽祭も後半はゆっくり見ることができた。NEWSの衣装が過去最高だった。

 

入院しても夜眠れないのは相変わらずなので、いつものように3時過ぎまで起きてYouTubeなど見ていたが、30分おきくらいの頻度で看護師さんが見回りに来て「まだ起きてる!」みたいな顔をして去っていくのでなんだか申し訳ない気持ちになった。すみません、これがデフォルトなんです……

 

 

 *

7月1日。朝食の後、8:40処置室へ。

遅くまで起きていたことがバレていて、明日は分娩で体力使いますから、今日はそれに備えてゆっくり寝てくださいね〜と笑われる。すみません。

今から昨日と同じようにダイラパンを追加して、午後にまた様子を見て処置をするとのこと。今日も前処置だけだから、昨日みたいにテレビでも見てのんびり過ごすか〜。ダイラパンを入れる処置は痛くて不快だけど、まあその後の痛みも我慢できないほどじゃないしね……なんて思っていたが、甘かった。

 

挿入時、昨日の午後を更に上回るほどの激痛。あまりに痛いので思わず「せっ、先生!いま何本入ってるんですか!?」と聞くと「10本です」との返事。

じゅっぽん!! 膣の奥に、水を吸って膨らむ棒が、10本も突っ込まれてるのか!

 

病室に戻るも、処置後に出てくる水分の量が昨日までと全然違う。おりものシートでは心もとなかったのでナプキンに替えて様子を見るが、血液混じりの水がどんどん出てきてすぐビショビショになってしまう。それから生理痛どころでない下腹部の痛み。これ、本当にガーゼの水分か……?と不安になったところで看護師さんが血圧を測りに来てくれたので、水がめっちゃ出てきますと報告する。

 

「あー、ダイラパン入れた刺激で破水したんですね」

 

破水て! そうかこれ破水か! 

えっ、破水して大丈夫なんですか? 陣痛来ちゃったりしないんですか?

 「午後にもう1度処置があるから、その時先生に見てもらいましょうね〜」

 とりあえずすぐ出てきちゃったりすることはないらしい。もう痛すぎるので寝てしまって午後の診察までやり過ごしたいのだが、寝不足にも関わらず痛すぎて全然眠れない。痛いよ〜痛いよ〜とさめざめしながら横たわっていたら、昼食前に先生が病室まで来てくれた。

 

「どんな感じですか?」

「水が出てくるのはおさまったんですが、重い生理痛のような痛みがずーーーっとあります」

「わかりました、午後に様子を見てダイラパンを抜こうと思ってましたが、抜いたらお産が進んじゃいそうなので明日の朝までそのままにして、明日の朝に抜いて陣痛促進剤を入れましょう。今日はもう処置はしないので、安静にしてゆっくりしていてください。痛み止めいりますか?」

「いります!!!!」

 食い気味で痛み止めを所望した。とにかく痛みを和らげないとこのままでは眠れない。

 しばらくしてロキソニンを持ってきてくれたので、昼食後に飲む。なかなか効かず、このまま痛いのか……? と不安になったが、14時過ぎから少し落ち着いてきて、小1時間ほどウトウトできた。

寝たことで少しスッキリしたのでその後はベッドの上でできるだけ動かず過ごす。下腹部を触るとかなり下の方、恥骨のあたりがカチカチに張っている。明日の朝外に出られるからね〜、と擦りながら話しかけ、5時間おきにロキソニンを追加しつつ深夜2時頃また眠った。明日は午前中からいよいよ出産だ。陣痛ってどのくらい痛いのかな……

 

 

 *

 下半身が冷たくて目が覚めた。時計を見ると朝の5時である。

布団をめくって思わず、えっ、という声が出た。

下着からパジャマから全てが水分でビショビショになっており、布団にも水のシミができている。
どうやらおさまったと思っていた破水がまだ終わりきっていなかったらしく、寝ている間に漏れてしまったようだ。自分の子宮内にこれほど大量の水分が入っていたことに感心しつつ、とりあえずトイレへ行き下着とナプキンを交換してから、ナースコールで看護師さんを呼んだ。新しいパジャマを貰い着替えると、シーツを交換するから待合室で待っていてくださいと指示され、病室の外の談話室のようなところで座って待機した。朝から看護師さんに働かせちゃって申し訳ないな……などと考えていると、急に激痛が尻のあたりを襲った
 肛門に硬いボールを入れられて思いっきり圧迫されたような、ギューーーーッとした痛みで息もできない。なんだなんだ? と慌てていたら次第に波が引き、少し楽になる。入院してから便が出ていないのでその痛みかな……と思っていたら、また差し込むような、尾てい骨がバリバリと裂けそうな痛みがギューッと襲ってくる。
何度か繰り返し、これもしかして陣痛じゃないか? と気付いた。
 
メモ代わりに使っている自分宛のLINE画面を開き、痛みがきた時間をメモしていく。大体3分置きくらいに痛みがきている。確か陣痛ってもっと長い間隔から始まるんじゃなかったか? さっきまで寝ていて、いきなり3分間隔なんですけど!?
 
 脂汗を流していたら、シーツ交換を終えた看護師さんが来てくれた。なんとか病室に戻ると、もう少しゆっくり寝ててくださいね〜、と言われたので、待っている間に傷みが来て、等間隔なのでもしかして陣痛かもしれないと伝える。
あらあら、ちょっと確認してきますね。と看護師さんがナースステーションへと戻っていく。その間にも痛みは規則正しく訪れ、横になることもできずベッドに腰掛けたまま深呼吸していた。水分なのか血液なのか、凄い勢いで何かが膣から流れている感覚がある。さっきナプキンを替えたばかりだけどこのままではまたパジャマまで汚れてしまうかもしれない、トイレに行かなきゃ……と思った瞬間、激痛と共になにか塊が膣の奥から落ちてくるのがわかった。おそらくダイラパンと一緒に詰めてあったガーゼだ。たまらずナースコールを押す。
 

f:id:tounoin:20210710152523j:plain

すみません、多分ガーゼだと思うんですけど、入れてたものが落ちてきた感覚があります。と伝えると、慌てて車椅子を持ってきてくれてそのまま分娩室へと運ばれた。朝早くにすみません、としきりに謝ってしまうが「全然いいですから! 早めに教えてくれてありがとうございます」と優しく言われた。
 
 分娩台に上がってしばらく痛みに耐えていたら、主治医の先生とは違う医師がやってきた。当直の先生だろう。急すぎて私の情報が伝わりきっていないようで、看護師さんもバタバタと支度をしていたので、もう自分で言ったほうが早いなと思い「昨日の午前中にダイラパンを10本入れてまだ入っている状態です、さっきガーゼと思われる何かが落ちてきたところです」と説明する。
すぐに先生が下半身をのぞいて、あ、ガーゼですねと教えてくれた。それじゃあ今からダイラパンを抜いていきますね、ちょっと気持ち悪いけどごめんなさいね。と声をかけてくれて、体の中から1本、また1本と棒状のものが引き抜かれている感触が続いた。 
 
どんどん棒が抜かれていくと、あの差し込むような激痛はスーッと引いていった。棒が全て抜かれ、先生は何やらカチャカチャと処置をしている。あれ、痛み収まっちゃったな。予定ではこのあと陣痛促進剤を投与するはずだから、これからまたあの痛みがくるんだなぁ、便が出ていないままなんだけど、この先分娩が始まってイキんだら便が出ちゃわないか心配だな……などと考えながら「痛みが引きました〜」と申告すると、先生が驚きの言葉を発した。
 
「さっき赤ちゃんもう出ましたからね〜」
 
ええええ!? 
 
「えっ!?もう生まれたんですか!?」
「はい、今看護師さんが綺麗にしてくれてるから、会えるまでもうちょっと待ってくださいね」
 
衝撃である。薬も使っていなければイキんでもいない。陣痛らしき陣痛はほんの20分ほどで、ツルンと生まれてしまった。
ふと壁のホワイトボードに目をやると、看護師さんが書いたであろう走り書きがあった。
 
 「5:57 児」
 
 ああ、5時57分に生まれたんだ。5:00に目が覚めて、痛み始めたのが5:10くらいだったから、本当にあっという間のことだった。夜型の私の子にしちゃ早起きだな、夫の遺伝だな。なんて思った。
 
 
 
 *
 処置が終わり、残留物が無いかどうかエコーで確認される。
綺麗になってますね、と見せられたエコーにはもう何も映っていなくて、私のお腹がからっぽになってしまったことを実感してしまう。
 
 産後は出血が続くので、分娩台に寝かされたまま2時間安静にするように言われた。私以外無人の静かな分娩室で、腕に繋がれたままの血圧計が定期的に動いて、血圧を測ってくる音だけが響く。
 
しばらくして看護師さんが戻ってきて、赤ちゃんに会いますか、と聞かれた。
会いたいです、と答えると、ちゃんと新生児が乗せられるのと同じカートのようなものに布団を敷いて寝かせてもらった我が子がやってきた。
 
12cm、53gの、赤くて小さなかたまりだった。
ゼリーとかスライムみたいにプルプルで、口の中の粘膜のような質感。だけど、ちゃんと目と鼻と口があって、スラッとした腕と脚が伸びていて、足の指なんかもよく見ると5本あった。鼻がしっかり高くて凄くスマートな顔をしている。今にも溶けてしまいそうでフニャンフニャンに柔らかいけれど、赤ちゃんのミニチュアみたいだった。
凄く凄くかわいい、と思った。
 
 やっぱり体中が水で浮腫んでいて、特に首のあたりはマフラーを巻いているみたいに膨れている。お腹も腹水でポンポンになっていて、さぞ苦しかったことだろう。辛かったのによく頑張って生きてくれたね、ありがとうねと声をかけた。
 「性別ってわかりますか?」
「それが小さくてわからなかったから、書類上は不明ってなってるんだけど……ちょっともう1回見てみましょうか」 
 看護師さんが、ちょっとごめんね〜と赤ちゃんに謝りながら、綿棒ほどの細さの小さな脚をかき分ける。
「あっ、何かついてるみたいに見えますね、男の子かもしれないね」
見てみると、確かに股の間に小さなポチッとしたものがついていた。そっか、男の子だったのかな。夫は男の子だったらキャンプ行きたいって言ってたなぁ。
 羊膜に包まれたまま綺麗に出てきてくれましたね。へその緒と胎盤もくっついたまま一気に出てきてくれたんですよ。胎盤が体に残ってなかなか出てこないこともありますから、よかったですねと看護師さんに言われる。
 
 「5時まで呑気に寝てて、破水で目が覚めて、ちょっと痛い!って思ったらもう生まれちゃいました。促進剤も使ってないのに」と笑うと、
「お母さんが苦しい思いをしないように、できるだけ休ませてくれたんですね」と言ってくれた。
 
 本当にそうだ。
子供ができなくなるリミットに怯えていたら宿ってくれて、夫にエコーを見てもらうまで頑張って生きてくれて、中絶を躊躇う私を気遣うように心拍が停止して、強い薬を使う間もなく生まれてきてくれた。なんというか、空気を読みすぎるというか、優しすぎる。
なんていい子だったんだろう。でもそんなにいい子じゃなくてもよかったんだよ。そんなにいい子じゃなくても、健康で、生まれてきてくれるのが一番だったのにね。
悲しみよりも、ただただありがとうという気持ちが強くて涙も出なかった。生きて生まれることはできない命だったけど、この子がその命全体で放った優しさが膨大すぎて、なんだか神さまを拝むみたいな気持ちに包まれていた。
 
 
 *
 生んでからは行政的な手続きに追われる。12週を越えて死亡した胎児は、役所に死産届を出し、埋葬許可証を貰い、火葬しなければならない。
ありがたいことに夫が早めに仕事を切り上げて病院へ来てくれて、その日のうちに市役所に届け出をし火葬場の予約まで済ませてくれた。
 この病院もコロナで面会は禁止なのだが、死産だから特別に配慮してくれて個室へ移動となり、夫も子供に面会することが許された。
 
私は凄くかわいいと思ったけど、あまりにも小さくて遠目からだと内臓のかたまりのようにしか見えないので、夫はショックを受けるかなぁ、と少し心配になる。衝撃を和らげようと思ってあらかじめ「プニプニの粘膜だから内臓みたいだよ」と伝えていたのだが、夫は子供を見るなり「わ〜〜ちっちぇ〜〜」と目を細めて笑った。俺に似て鼻がしっかりしてるな、なんて言いながら写真を撮る夫を見て、なんだか無性にうれしかった。
 
 7月3日土曜日、退院の朝。主治医の先生が朝イチで診察をしてくれて、このまま退院で問題ないでしょうとのこと。夫が迎えに来てくれるのが12時頃なので、それまで病室でテレビを見たり(土曜はナニするの伊沢くんもしっかり見た)、うたた寝したりでのんびり過ごす。
この日も天気は土砂降りだった。せっかく海と空が見える病院なのに、まだ1度も晴れた空を見ていない。火葬は翌朝の予定だったが、天気予報ではやはり雨とのことだった。
 
 夫が迎えに来たので、看護師さんと一緒に我が子を棺に入れる。病院で用意してもらった棺は立派な木の箱で、可愛らしい小さな枕と布団も入っていた。そこに寝かせて布団をかけてあげると、お人形のようで凄く可愛くなった。
大量の保冷剤を入れたクーラーボックスに棺を収め、お世話になった看護師さんたちにお礼を伝える。医師も看護師も、本当に全員優しく、子供を亡くした私に寄り添ってくれた。
遺体を運んでいるからだろう。わざわざ警備員をエレベーターに配備してくれて、他の人が乗ってこられないよう貸し切りにするという配慮もされていて感動した。
 
 火葬は翌朝。今日は家族3人で過ごす最初で最後の日になる。棺にお花を入れてあげよう、ということで、花屋さんの入っている大型ショッピングモールまで車を走らせた。さっきまで土砂降りだった雨はやんでいた。
 
「名前なんだけどさ」
 
入院前、戸籍には残らないけど名前をつけてあげようね、と夫とは話していた。男女どちらでもいける名前をいくつか考えたものの決めかねて、生まれたら性別がわかるかもしれないからその時考えよう、ということになっていた。
 
 「病室の窓からずっと土砂降りの空を見ててさ。明日も雨だっていうし、この子に晴れた空を見せてあげたかったなぁって思って。せめて天国で晴れた空にいけるように、『晴』で『はる』か、『空』で『そら』か、どっちかがいいかな、って思ったんだけど、どう? 男女どちらでもいいし、胎児だからひらがなっぽい名前の方がいいかなって」
 夫に提案してみると、
「いいんじゃない? そしたら『晴』も『空』も両方使って、『晴空』で『はる』にしたら?」と返ってきた。
 「それだとちょっとキラキラネームじゃない?」
「まあ、俺たちの中だけの呼び名なんだからいいんじゃね?」
「確かにそうだね。あ、じゃあ、どうやら男の子っぽいから、晴空で『はるく』はどう?」 
「おお、いいじゃん、そうしよう」
 
 はるく、はるく。うん、呼びやすいしかわいいね。ちょっと画数でも調べてみようかな〜、と、いつか使うつもりでスマホに入れていた赤ちゃんの名付けアプリ(世の中には何でもアプリがあるものだ)で、私たちの名字とくっつけて姓名判断をしてみる。すると、驚愕の結果が出た。
 

f:id:tounoin:20210710153048j:plain

「な、なんか、めちゃくちゃ画数が良くて、何やっても成功する完璧人生、みたいなことが書かれてる……」
「スゲーじゃん、よかったなあ晴空、いい名前だってよ〜」
夫がニコニコしながらクーラーボックスの中の子に話しかけた。
すると、さっきまでどんよりとしていた雲の隙間から、太陽の光が何本か現れ、晴れ間が見えた。
「あれっ、晴れた! 凄いね、さすが私たちの子だね」
夫婦揃って晴れ男・晴れ女を自称しているのでついそんな言葉が口をつく。
ここまでずっといい子で徳を積んでたから、やっと外に出られたタイミングで晴れたんだね〜。すごいね、日頃の行いってやつだよ、とふたりで喜んだ。
 
 
我々の英才教育により、成長したら絶対浦和レッズのサポーターになることは確実だったので、棺に入れる花は赤と白(レッズのチームカラー)にしようということで夫との意見が一致した。
花屋に到着し、白と赤の花を見繕っていると、ふとひまわりの花が目に入る。ひまわりもいいな、夏生まれだし、晴れた空に似合うし……と思っていたら夫が「黄色入っちゃうけど、明るくなるからひまわりも入れよう」と言い出した。こういう気持ちの一致がしみじみと嬉しい。
 
 花屋さんを出ると、少し離れたところにケーキ屋があるのを見つけ、ケーキも買おう、と夫が言う。 
 「晴空の誕生日だからお祝いしなきゃな」
 そう言ってスタスタとケーキ屋に入っていく夫の横顔を見て、この人のこういうところが本当に好きだなぁと思った。同時に、この人が父親として生きていく姿を見てみたかったな……と考えてしまったけれど。
 
 0歳だから、と、0の形のロウソクも一緒に買うと、店員さんが「プレートも付けましょうか?」と聞いてきた。せっかくなのでお願いする。
 しばらくして店員さんが完成品を持ってきた。「晴空ちゃん おたんじょうびおめでとう」と書かれたプレートは思ったよりずっとかわいい仕上がりで、太陽のイラストまで添えてある。わーかわいい!書いてもらってよかった! と思わず言うと、店員さんが「すごくかわいい名前ですね」と言ってくれた。夫と顔を見合わせて、ありがとうございます! と答えた。晴空が褒められたみたいで、めちゃくちゃにうれしかった。
 
 
 *
 棺に花を敷き詰めるとますます可愛らしくなった。入りきらなかった花を飾り、ケーキを出し、家族3人の時間を過ごす。ちょうどレッズの試合があったので「英才教育だ」と言って晴空の棺をテレビに向けて、一緒に試合を見た。ついでに「ジャニーズも英才教育しとこう」と言ってFNS歌謡祭のNEWSも見せた。
 

f:id:tounoin:20210710153212j:plain

 
ケーキを食べ終わると、夫が「飲めそうなら一緒に飲もう、弔いのお酒だ」と言って棚の奥から古いウイスキーを出してきた。それは存在を忘れかけていた、ある約束のウイスキーだった。
 
 結婚した8年前。結婚祝いに夫が大事にしていたウイスキーを開けて、ふたりで飲んだ。コレクションしていた数本のうちの1本だったのだが、その時、残りのコレクションも何かめでたいことがあった時に開封しよう、ということになって、サインペンでそれぞれの箱に目標を書いたのだった。
資格試験合格、昇進など、目下のところの目標を夫がどんどん書いていく。ところが、最後の1本で書くことがなくなってしまった。
夫はしばらく悩んで、箱に「父」「母」と書いた。もし俺たちが親になることがあったら開けよう、と。
 最初に書いた通り、我々は子供を持つ予定が無かったので、これ一生飲めないんじゃない? なんてその時は突っ込んでいたのだが―――。
 
 夫は着実に目標を達成していき、その度にウイスキーを開けてきた。8年の間に、いつの間にかほとんど全てを飲み干していた。「父」「母」と書かれたこの1本だけを残して。
 すごいな、これで全部夢が叶ったんだなあ、と夫が呟いた。
一生このウイスキー開封することないと思ってたのに、開けられたね。晴空のおかげだね。と笑った。
 

f:id:tounoin:20210710153322j:plain

 
ウイスキーをちびりちびりと飲みながら、晴空を挟んで、深夜までたくさん話をした。今までのことと、これからのことと。何度もふたりで棺をのぞきこんで、かわいいねえ、本当にかわいいねえと言い合った。
あんなに毎日酒ばかり飲んでいたのに、妊娠して数ヶ月お酒を飲まないでいるうちに、私はすっかり飲めなくなっていた。
 
ベッドサイドに棺を置いて、その夜は3人で寝た。
 
 
 *
 7月4日日曜日。
胎児の遺体は小さいため、普通の火力で火葬すると骨が残らない。そのため、炉が冷えた状態の朝1番に行き、低い火力で火葬してもらうことが多い。(それでも骨が残るかは焼いてみないとわからない)
 朝8時半、まだ誰もいない火葬場へ行くと、ちゃんと「○○家」と私たちの名前が表示されていた。職員の方が丁寧に案内をしてくれる。普通のお葬式の時と同じように、お焼香をし、手を合わせ、お見送りをする。胎児もちゃんと人間として扱ってくれることになんだか感動してしまった。
30分程で準備が整ったと呼び出しがかかった。あまりにもフニャフニャで柔らかかったから、きっと骨は残らないよねえ、と夫と話していたのだが、大腿骨と思われる骨がしっかり残っていた。爪楊枝程の細さだが、確かに骨の形をしている。全部集めても指先でつまめる程度の僅かな骨を、斎場で用意してくれた一番小さな骨壷に納める。
母が死んだとき、骨壷を持った叔父が「こんなに軽くなっちゃって……」と言っていたが、53gだった晴空は骨壷の重さでむしろ重くなったので、不思議な気持ちになった。
 
これで全てが終わった。妊娠以来張り詰めていた気持ちが、急にほどけていくのを感じた。
 
 
 
 *
 これが、この1週間の出来事。長い長い記録になった。
 
 私は妊娠するまで、自分の人生はもう余生のようなものだと思っていた。
父は45歳、母は70歳で死んでいるので私もまあそんなに長生きはしないだろう。80歳まで生きるとしてももう折り返している。
この年になると自分の能力の限界も大体わかっているし、特に心が惑うこともなくなってくる。これから先、人生にイベントが起こるとしたら、まあ何かのきっかけで夫と離婚するとかそのくらいのもので、それでも自分がそれなりに楽しく生きていけるのはわかっていた。夫や友人や趣味に囲まれて、穏やかにのんびり生きていく。そういう予定だった。
 だけど妊娠して、私の世界はガラッと変わった。ただ今までと同じ日常を寿命まで繰り返すだけだと思っていたのに、子供を生み育てるとなるとイベントだらけだ。育児、子供の就学、子供の受験、独立、もしかしたら結婚や出産も。余生とか言っている場合じゃない、早死にしてる場合じゃない。
一度「親モード」のスイッチが入ってしまったから。もうその未来は来ないとわかっているのに、なかなかスイッチが切れないでいる。
 
本当に幸せだったのだ。
流産しないか毎日不安で仕方なかったし、つわりで体調も最悪だったし、大好きな刺身も生ハムも食べられなくて行動も制限されて大変だったけれど、間違いなく、妊娠してからのこの数ヶ月が、今までの人生40年間で一番幸せだったのだ。
毎日お腹に手を当てて話しかけた。お腹が膨らんで着られる服がなくなっていくのがうれしかった。お腹の中の存在そのものが、わけのわからないほどの幸福感を私に与えてくれていた。
 15年一緒にいる夫のことも、もともと大好きだったけれど、この数ヶ月の夫が圧倒的に一番好きだと思った。この先どんなに夫との間に亀裂が入ることがあったとしても、妊娠してから今日までの夫の言葉や行動への感謝は絶対忘れられないから、夫のことを嫌いになることは一生ないだろうと思える。そのくらい、妊婦の夫として、そして父親としての姿勢は、私にとって精神的支柱であり尊敬の対象だった。
 だからこそ、火葬を終えて我が子が小さな骨壷に納まってしまっても、スイッチを切ることができない。一度描いてしまった、夫と子供、家族3人での新しい人生の想像図が、頭の中から消えてくれない。何をしていても、何を見ても、これを子供にも見せてあげたかったなと思う。スーパーへ買い物へ行くと、乳児を連れた夫婦ばかりが目に入ってしまう。今はまだ日も浅いから仕方ない、時間が解決すると自分に言い聞かせて、できるだけ考えないように努力をするけれど。
 
 私は来月41歳になる。普通に考えたら、また妊娠する確率はかなり低い。万が一奇跡的に妊娠したとしても、年齢を重ねているぶん染色体異常などのリスクは今回の妊娠よりも更に増すわけで、今回と同じように生まれてこられない可能性もおおいにある。だから一度思い描いてしまった「子供のいる生活」は、よっぽどの奇跡がないかぎり来ないと理解している。
大丈夫、もともと予定していた人生に戻るだけだ。趣味をたくさん追いかけて、最低限のお金を稼いで、美味しいものを食べて、穏やかに余生を楽しむ。私はその幸せをよく知っている。いつかスイッチが切り替わるから、今はただ時間の経過に身をゆだねるしかないのだ。
 
 
 *
 あれから1週間。今は7月10日の午後。
全国的に災害をもたらすほど降り続いていた雨があがり、今日は眩しい晴天が広がっている。何日ぶりの晴れだろうか? 少なくとも私が入院した6月30日からはずっと雨か曇りだったから、青空を見たのは退院の日に一瞬雲の切れ間ができた時以来かもしれない。
 晴空と名付けた子に、心で語りかける。はるく、今日はあなたの名前と同じ空だよ。やっぱり晴れた青空は最高だね。
 
 綺麗な空を見ていたらふと思い出した。そういえば何年か前に、占いのできる方にこの先10年についてざっくり占ってもらったことがあった。ちょうどその頃、冒頭にも記した「避妊をやめた」時期だったので、諸々不安になって自分がいつか妊娠することがあるか聞いていたのだ。
過去のメッセージのやりとりを見てみると、私の相談内容と占い結果が残っていた。
 
 

f:id:tounoin:20210710153747j:plain

 

f:id:tounoin:20210710153806j:plain



 占い通り2021年に妊娠したことにまず驚いたが、なにより、私が子供を持つことに消極的だったことがはっきり表れていて感慨深い気持ちになった。
 
 38歳の私よ、あなたは占い通り2021年に妊娠するよ。
だけど安心して欲しい。それはそれはもう、信じられないくらい、愛せるから。
 
 私は人よりも「愛」の感情が強いとよく評されるし、自分でもその自覚はある。実際人生で出会ったあらゆるものを愛してきた。それなのになぜか、子供についてだけは苦手意識ばかりが先行し、避けて避けて生きてきた。
だけど、妊娠をした瞬間から、今まで自覚していた「愛情」というものを大きく超える感情が爆発的に発生した。たった17週と6日で天にかえってしまった我が子が、40年生きてても知らなかった感情を私に与えてくれた。
 
 物凄く大きな愛を知った。本当に幸せだった。
「晴空はこの気持ちを教えにきてくれたんだ」と夫が言う。
「幸せだった、それだけでいいんだと思うよ」と。
 
 ほんの短い期間だったけれど、私は確かに「母親」だった。これから先、また今まで通りの生活に戻るけれど、母親となって得ることができた景色はもう不可逆で、これからの生活は元と同じようでも、同じではないのだ。
 
空に向かって手を伸ばす。この愛を、幸せを、この景色を私に残してくれた子供への感謝の気持ちがとめどなくあふれてくる。この世界を知ることができて、本当にうれしい、ありがとう。ありがとう。
 
 
 晴れの空を見上げて、私はこれからも生きていく。
この愛と幸せに抱かれながら生きていく。