桐ノ院整体院

浮気どころか不倫だぞと罵られ隊

君と僕は日々を過ごしてく 当たり前の時間を生きてく

所属事務所のプロフィールによると、夕闇に誘いし漆黒の天使達は「コミック系ラウドバンド」である。

ベースのともやん、そして2022年11月に脱退したギターの千葉の2名がコンポーザーとして作成したトラックに、にっちがドラムを乗せる。その楽曲はただひたすらにカッコいいラウドロックだ。Youtuberが片手間にバンドやってるんでしょ?という先入観をもっている人たちが、いざ楽曲を聴いてみると彼らがいかに音楽へ対してリスペクトを持ち、真剣に向き合っているかを感じ取り魅了されてしまう。そういう例を何度も見てきた。そして何より私自身も、Youtubeの延長線上の軽い気持ちで楽曲を聴いて、バンドとしての夕闇に落ちてしまったひとりである。

 

メンバーたちの作った掛け値なしにカッコいいサウンドに、メロディと歌詞を付けるのはボーカルの小柳だ。ここに「コミック系ラウドバンド」の「コミック」の全てがある。小柳はかつてインタビューで、自身の作詞活動のことを「台なしという工程」と表現していた。

 

「作詞」じゃなくて「台なし」という工程 |Real Sound|リアルサウンド テック

 

めちゃくちゃカッコいい曲なのに寿司の曲だったり、めちゃくちゃエモい旋律なのにパチスロの曲だったり、とにかく小柳は「カッコいい」に「面白い」を上乗せしていく。「台なし」と表現しているがそれが結果的に「バカでカッコいい」という、バンドとして他にはなかなかない特性を生み出しており、巧みなライブパフォーマンスも相まって夕闇というバンドの魅力を更に大きなものにしているのは間違いない。

 

そんな夕闇が2022年にリリースしたのが「七生活」というミニアルバムだった。

タイトルに「七」が付いているとおり7曲から構成されているこのアルバムは、私達の生活がテーマとなっており、朝の曲(Good Morning Dead)から始まり、労働し(時給アップアップソング)、生きて様々なものを消費して(君のバッテリーを奪う)、そして夜を迎えて締めくくられる。

 

このアルバムをコンセプトとした全国ツアーが本当に素晴らしく、最終公演までネタバレを禁じられたほどに様々なギミックがちりばめられ、ライブ全体を通して私達の1日の生活に、ひいては人生に寄り添ってくれるような仕上がりとなっていた。

2022年9月19日、そんな最高のツアー最終公演。旧渋谷公会堂という夕闇史上最大の会場でのツアーファイナルは大成功に終わり、しかもその場で「日比谷野外音楽堂」という更に更に大規模な会場でのライブが告知され、ファンのボルテージは一気に高まった。この世の幸せを全て詰め込んだような1日だった。

 

翌9月20日

ギターの千葉が脱退すること。

11月27日の日比谷野外音楽堂でのライブは、千葉の卒業公演となることが発表された。

 

 

 

前述のとおり夕闇の楽曲の特性は「カッコいい曲にふざけた歌詞」というものだが、実は小柳の書く歌詞は「どんなにフザけていても裏テーマみたいなものが設定されている」という。本当は社会に問題提起をしていたり、人生について真面目なことを表現したりしているのだが、フザけた歌詞でそれをマスクしている。「これをわかってくれ、って直球を投げることが僕にはできないから、フザけたものに包んで郵送している」という小柳の言葉*1からも、彼の作詞に対する真摯さをうかがい知ることができる。

 

その小柳が全くフザけていない歌詞を書いたのが「七生活」の最後を締めくくる夜の曲、「忙しい夜が終わる頃に」だった。

 

歌詞が真面目なだけではない。この曲は初めて小柳が作曲もしている。メロもラウドロック特有のデスボイスを一度も使わずクリーンのみ。

「熱いMCをするタイプのボーカルではない」はずの小柳が、ライブの最後、この曲を歌う前だけは珍しく感情を乗せて語るのも異色だった。そんな熱い語りの中いちどポロっと彼は言った。

 

「夜の曲だけは、ふざけられなかった」

 

繰り返す夜の中で

終わりのない 日々を過ごしてく

爪を立てる秒針を壊してく

崩れゆく夜の果てで

いつまでも愛を探してる

この場所でまた 忙しい夜が終わる頃に

 

 

リリースイベントで小柳が解説したところによると、歌詞の中で探している「愛」とは、文字通りの愛とか恋という話ではなくて、すなわち生きる意味、みたいなものだという。

心が壊れてしまいそうな夜、辛くて辛くて先が見えないような日々、それでも愛を探して、愛を支えに生きていく。生活をテーマにしたアルバムの最後に、かつてないほどの直球で私達へ向き合ってぶつかって、ふざけずに寄り添ってくれた。

 

メンバーたちはこの曲を演奏するとき、まさにすべての魂を込めたような表情をしている。音楽に、生きるということに、真剣に向き合って、そしてこの曲を聴く全ての人に寄り添って、力の限り表現する。ライブの最後、私はいつもそんな4人を見て、なにかかみさまに祈るような気持ちになっていた。

 

この人たちがずっとこうして演奏する姿を見ていたい。こんな気持ちを与えてくれるこの人たちが、もっともっと大きくなって、もっともっとたくさんの人がこんな気持ちになれるように、なりたい、きっとなれる、そこまで一緒に行こう、きっと、かならず。

 

ツアーが終わる頃には、ファンたちにとって、この楽曲は特別な存在となっていた。

 

 

 

ツアーファイナル翌日。千葉の脱退が発表になると、そう少なくない人数のファンがこの曲を思い出したのも無理はないだろう。ただでさえ異色の直球のメロディ。直球とは言っても小柳特有の、何かを含ませたように象徴的な、すなわちいくらでも解釈のできる歌詞。

トドメはこの楽曲のなかでいちばん象徴的な、大サビ前のCメロの歌詞だった。

 

いつか此処で 27の先を観る

どんな理想を抱いても

また後悔すればいいじゃないか

意味を塗り替える君と

誰のためじゃない自分自身を

また夜が来ればいいから

 

千葉の脱退が決まってから聴くと、まるで自分の夢に向かって道を歩むことを決めた千葉の背中を押しているようにも聴こえる。千葉の卒業公演である野音ライブの日程が11/27と決まっていたこともファンの感情に拍車をかけた。

 

千葉が脱退を申し出た時期と、この楽曲の制作時期を考えるとそんなわけはないのだが、いやしかし、小柳のことだからわからない、あいつはうっかりそういうことやりかねない男だ、もしかして千葉のことを歌った曲なのか? 私達は(いい意味で)小柳のことを信用してないので、いちどそんなような気がするとそういう曲にしか聞こえなくなってきてしまった。

 

はたして、すぐに更新された小柳のインスタで真相は明らかになった。千葉が脱退を申し出てくる前には完成していた楽曲なので別にリンクさせてつくったわけではないこと。なんなら野音ライブも元々決まっていたけど結果的に卒業公演となったこと。ああそうだよね、そりゃそうだ、と納得したが、そこから続く小柳の言葉に私はうちのめされてしまった。

https://www.instagram.com/p/CiwiatjvNhB/?igshid=NTc4MTIwNjQ2YQ==

 

 

「忙しい夜が終わる頃に」とかも別にそんなつもりで書いたつもりではないんですが、なんの因果か結びつくところが多くて、ボーカルの言霊だなーと思っています。

意味を持って書いたものが別の意味を持つことは、また曲の良さですね。(そこは自由に聴いてください)

 

小柳という人間は独裁的で頑固で難しい人なので、おまえら勝手に解釈してはしゃいでるんじゃねえよって怒鳴られることだって考えられた。

だけど小柳はファンと同じように「結びつくところが多い」と言ってくれた。作詞者自らが、結びつくよねと言ってくれて、「別の意味をもった」と、自由に聴いていいよと言ってくれたのだ。

オタクがこの曲を「千葉ちゃんのことを歌っているみたいな歌だ」と、作者の意図していなかった意味を持たせて大切にすることを、作者自らが認めてくれたのだ。こんな、こんなことあるだろうか? こんなに寄り添ってくれることが?

作者はつまりかみさまみたいなもので、かみさまに赦された、みたいな気持ちになって震えてしまった。 

 

この曲をライブで聴くとき祈りにも似た想いを抱えていたことを思い出した。ただでさえ大切だったこの曲が、この日からもっともっと何十倍も大切な、大きな意味をもった曲になった。

 

 

 

 

このブログを読んでくれているほとんどの人はジャニオタ、おおむねNEWS担だろう。

NEVERLANDで最後に自然発生した「U R not alone 」

活動再開後に初披露された「生きろ」

3人になってはじめての楽曲となった「カナリヤ」

 

NEWS担である私は、節目節目で忘れられない彼らの楽曲とパフォーマンスに触れてきて、その度にNEWSへの愛をどんどん深めていった。きっとNEWS担の多くが、各々そのような経験があると思う。

 

どうかどうか、そういう感情を知っている皆様。

夕闇に興味のないフォロワーさんも、どうか見てほしい。

これは、私にとって間違いなく、この先の人生にずっと残っていく数分間だった。

 

youtu.be

 

3000の座席があっという間に完売した日比谷野外音楽堂

 

皆が愛したギター、千葉ちゃん卒業の日。

ライブ本編最後の曲は、やはり「忙しい夜が終わる頃に」だった。

 


印象的なギターの旋律から始まるこの曲。千葉ちゃんのギターはどこかエモーショナルで哀愁のある音色で、それが本当に本当に大好きだった。

もう私はイントロから前が見えないくらい泣いていた。多分ほかのファンも皆泣いていた。

 

魂を削ってパフォーマンスをする夕闇をどうか見てほしい。

夕闇に誘いし漆黒の天使達という、ふざけたバンド名の、ふざけたカッコいい曲ばっかりのバンドが、こんなにも優しく熱く人生に寄り添ってくれるのだということを知ってほしい。

 

 

崩れゆく夜の果てで、忙しい夜が終わる頃に、私がいつまでも探しているもの。

探して見つけて追い続けて、一緒に日々を過ごしていくもの。

 

 

その1つの答えが確かにここにあるのだ。

 

 

*1:「PHY 音楽と人増刊 vol.23」小柳インタビュー

2022.9.20

NEWSのツアー日程が発表になったとき、大好きなフォロワーさんがLINEをくれた。

「仙台のオーラスに梓さんと一緒に行きたいので、申し込んでいいですか?」

 

チケットの申込みが4枚から2枚になったから、NEWS担の友達の多い彼女はきっと他にも一緒に行ける人はたくさんいるのに、オーラスという一番大切な日の同行者に私を思い浮かべてくれたことが本当に嬉しくて、絶対一緒に行こうね!と約束した。

無事に彼女の申し込んだチケットが当選し、私は自名義の当たった9月のさいたま公演を終え、もう他のチケットは所持していないのでNEWSのコンサートについては彼女と行くオーラスを残すのみとなっていた。

 

NEWSのオーラスまで2ヶ月開くが、その間も私はめちゃくちゃ予定が詰まっている。この1年、全身全霊で追いかけてきた「夕闇に誘いし漆黒の天使達」というバンドのライブ予定が次から次へと入ってきたからだ。NEWSオーラスの11月27日まで、寂しさを感じる余裕もないくらい夕闇に会える時間が確約されていたから、私のオタク人生最高だな、と思っていた。

 

昨日9月19日、私はLINE CUBE SHIBUYA(旧渋谷公会堂)にいた。7月から始まった夕闇全国ツアーの最終日を見届けるためだった。

最高のライブ本編が終わり、アンコールを求める拍手をしていると、突然ステージの画面に浮かび上がる「重大発表」の文字。

 

日比谷野外音楽堂でワンマンライブ決定!という知らせが流れ、思わずマスクの中で叫び声を上げた。野音で!!ワンマン!!!夕闇が!!!!

 

バンドに疎い私でも、野音という場所でやれることがどれほど凄い事かはわかる。飛び跳ねて拍手し、大喜びしたのもつかの間、表れた日程の文字を見て血の気がひく。

「2022年11月27日(日)」 

 

あーーーーーーーそんな、そんなまさか、NEWSオーラスだよ、同じ日だよ、仙台だよ。かみさま!!!!

 

 

 

夕闇のライブに同行していた方は、夕闇ファンでありNEWS担でもあるので、終演後トリキでメガハイボールを飲みながら「現場かぶりどうしよう……(涙)」とグチグチ話を聞いてもらった。誘ってくれた子の気持ちが嬉しかったから仙台で彼女とNEWSコンに行きたい。でも夕闇のはじめての野音を絶対見届けたい。どうしたらいい?

彼女は私に言う。「梓さんは、夕闇の野音に行くべき人間だと思いますよ」

 

うんうん悩んで、ライブの余韻もあって全然眠れなくて、2時間ほど仮眠して目覚めたら案外頭がスッキリしていた。

 

あぁ、私は夕闇の野音に行こう、行かなくてはならない。

夕闇は普通のライブハウスだとチケットが瞬殺するが、1000人規模の箱だとちょっとだけ余る、そのくらいの規模感のバンドだ。

3000人入る野音という箱での初めてのライブを、できるだけ満員にして、その景色を夕闇に見せたい。その景色を私も見たい。日頃から大小関係なくできる限りの夕闇のライブに足を運ぶ者として、初めて来た人にもこの楽しさを体感してもらえるように全力で動いてその背中を見せたい。

それが今の私の使命だと思った。NEWSを誘ってくれた友人には誠心誠意あやまろうと思った。でもきっと彼女はわかってくれるな、とも。

 

退勤したら彼女にメールをして、自分の気持ちを伝えよう……と考えながら1日仕事をする。退勤直前、帰り支度をしながらTwitterを開くと、数人だけフォローしている夕闇ファンの方の様子がおかしかった。

 

「減る」「やめる」「嘘」「スリーピースになるの?」

 

流れてくる不穏な単語ですぐ察してしまう。なんたって私は、NEWSが4人から3人になるのを経験してきた。いや、でもまさかそんな。だって昨日あんなに最高な、この世の幸せの頂点みたいなライブを見せてくれて、あまりにも幸せすぎて余韻で眠れないくらいの多幸感を与えてくれた人たちが、その人たちの誰かが、いなくなるなんて、そんなわけない。

 

何があったの?と呟いたらフォロワーさんが、ファンクラブからのメールを見るようにと教えてくれた。なるほどメールか……とアクセスしようとした瞬間、メールの通知が届いた。

 

 

ギターの千葉ちゃんが11月27日の野音をもって脱退するというお知らせ。

メールには、千葉ちゃん直筆のメッセージが添付されていた。

 

 

なんたってYouTuberなので、いや動画の企画では?ドッキリでは!?と言っている人もいた。でもジャニオタの私は知っている。動画に先行してFC限定で配信されるこんな直筆メッセージが、ネタなわけないことを。

なにより、こんなことをして「ドッキリでした〜」なんてオチをつける質の悪いYouTuberみたいなことを、彼らがやるわけがない。と、夕闇というYouTuberのファンとしての私も痛いほど理解していた。あの人たちは、そんなシャバいことはしない。ゆえに、これは本当のやつなのだと。

 

 

立っていられないほど動揺し、全身から血の気という血の気が引く。電車の中でもボロボロ泣いているおばさんの周りにいた人はさぞ恐怖だったろう。

震える手で動揺のツイートを繰り返しながら帰宅していると、NEWSのオーラスに同行するはずだった彼女から一言だけLINEがきた。 

 

「梓さん、11/27は夕闇優先したかったらそうしてね」

 

―――たまらず電話をかけた。やさしい声を聞いたら声が出ないくらい泣いてしまって、ごめん、ごめんね、私は夕闇を見に行かなければいけなくなってしまった、最後の姿は見なくてはいけない、どうしても。と伝えたら、うん、うん。とただ頷いてくれて、やっぱり泣くしかできなかった。

 

そのままの勢いで号泣しながらメンバーからの発表動画を見た。

後ろ向きな脱退ではないこと。夢があってそのためには二足の草鞋では難しいこと。やりたい音楽のジャンルも少し違うこと。

理由はどれもこれも納得でしかなかった。これからの人生のキャリアを積むために20代の若いうちにかじを切る、しごく真っ当すぎてぐうの音もでない。千葉ちゃんはギタリストでプレイヤーだけど、どちらかというとコンポーザーの方が好きなことなのだろうな、とは実際感じていた。

 

「悲しいけど、千葉ちゃんの夢を応援するよ」

 

………………なんて物分りのいいこと、今はとても言えない。他の夕闇ファンの倍くらい年をとっている私だが、とても大人になんてなれない。わかっている。納得している。千葉ちゃんが進みたい道にいってほしい、そうしてその道で成功してほしい。千葉ちゃんのことが大好きだから、千葉ちゃんが一番幸せなように生きてほしい。

心から、本当に心からそう思っているけど、でも私というひとりの人間の爆発する感情は「嫌だ!!!!!!!」でしかないのだ。

 

嫌だよ、いなくならないでほしいよ、お願いだよ。

 

千葉ちゃんの稀有な才能が本当に好きだった。他のメンバーはハチャメチャなようでいて実はかなり常識人なところ、天然で突拍子もないことをする千葉ちゃんの存在は貴重で他の誰にも真似できない魅力があった。エモい曲を作るのが得意なところが好きだった。超絶技巧ではないのかもしれないけれど、どこか哀愁のある音色のギターが好きだった。いつもポンコツでヘニャヘニャしているのに、演奏をしている時は異常にかっこよくて、時々ニヤッと微笑みながら音を楽しんでいる姿が好きだった。過去形じゃない、ぜんぶぜんぶ現在進行形で、大好きで、愛しい。

 

そんな千葉ちゃんとメンバーが一緒にいる姿がなにより好きだ。全員血液型が違っていて、性格も役割もバラバラで、バラバラだからこそそれぞれの良いところが最大限に発揮される4人。一緒にいればいるほどひとりひとりの魅力が輝く、奇跡のバランス。

 

その4人の姿を見られるのがあと2ヶ月? 

意味がわからない、意味がわからないよ。

嫌だよ、ずっと4人でいてよ。

 

きのう、渋谷公会堂を3階席まで満員にした光景を見て、泣きそうになった。

野音でライブをやるよ!と言われ、更に泣きそうになった。

これからこの4人はもっともっと、もっとデカくなる。もっと売れて売れてたくさんの人に曲を聞いてもらえる、きっとそうなる。そう確信した。

だからNEWSのオーラスを諦めて野音に行こうと思った。これからデカくなる4人の姿を見届けなくてはと思ったから。

 

だけど、その野音が4人を見られる最後だなんて、そんなの意味がわからない。

最後を見届けるつもりじゃなかったんだよ。

 

 

 

40年以上自分と付き合っている私は、自分のことをよく知っている。 

私はこの先千葉ちゃんがいなくなって3人になった夕闇のこともきっと追いかけるし、新メンバーが入ったらそのメンバーのことをきっとめちゃくちゃ愛するだろう。

夕闇を好きな気持ちはずっと続いていく。3人となったNEWSを今でも心の底から愛しているように。

今愛しているものがその形ではなくなってしまう悲しみは、いつか和らぐ。きっと残された夕闇3人が徐々に忘れさせてくれる。

 

だから1年後の私も、夕闇最高大好きって言い続けている未来しか見えないし、今こんなに辛くて悲しくても結局幸せに楽しく生きていけるとわかっているのだ。

 

 

わかっているけど、だけど、今は。とてもつらい。

「ファンとして応援してあげなきゃ!」と強がることが「大人になること」と思われがちだけど、

「今のわたしはとてもつらい」

無理しないで、そういうことを素直に言っても良いんだよ、というのを私は大人として若いファンの方に言ってあげたい。

 

だってつらいじゃん、悲しいじゃん、あたりまえだよ。大好きで大好きで大好きなままで、全然誰のこともどこにも攻めるところなんてなくて、決断した千葉ちゃんのことも受け入れて送り出したメンバーのこともなんならもっともっと好きになってしまった。全部仕方なくて、納得するしかなくて、そしたらこのつらいという感情はどこへ?

 

だから私はここに吐き出す。つらいよ、かなしいよ。

千葉ちゃんのいる夕闇が大好きだよ。

 

 

さみしいよ、千葉ちゃん。

 

 

NEWS担が、夕闇に誘いし漆黒の天使達というバンドのライブに魅了された理由

いつだってどこでだってひとりで行動できる人間だけれど、ひとりでいることを心細く感じたのは久しぶりかもしれない、と、開演を待つ会場のざわめきの中で考えた。

40年生きてきて、ライブハウスに足を踏み入れた経験は片手で数えるほどしかない。今回はライブハウスの中ではかなり規模が大きい会場で、またコロナ対策により着席仕様になっているため初心者へのハードルは格段に下がっているのだが、それでも普段よく行くジャニーズやお笑いのライブとは違った空気感に飲み込まれていた。

ノリ方とか全然わからないけど大丈夫かな。なんとなくリズムに乗って手拍子するだけじゃバンギャに怒られるかな。てかバンギャ怖い。何が怖いかわかんないけどなんとなく怖い。

ふつふつと不安な気持ちがわきおこってきたあたりで、ステージが暗転した。

オープニングの曲が流れる中、薄暗い舞台上にメンバーがひとりずつ登場し、それぞれの持ち場についていく。

ああ、ずっと映像の中で見ていた人たちがそこにいる。どの界隈の趣味も、はじめて足を運んだライブで、はじめて「生」の彼らを見るこの瞬間は一度きりしかなく、その時の高揚感は他の何にも代えがたいものだ。

やっぱり来てよかった。と、緊張がほぐれたその時、一番最後にゆっくりとした足取りでボーカルがやってきた。

まだ舞台は暗くシルエットしか見えない。中央の1段高いお立ち台に上がった彼は両手を広げ会場に向って何度か頷き、マイクを手にする。

 

――――シャウト

 

会場中を引き裂くような咆哮と同時に彼にスポットライトがあたり、その姿が照らし出された。

 

瞬間、鮮やかな色彩と光と圧倒的な存在感が私に向って飛び込んできて、目の奥から脳の中心を抜けて心臓まで、爆発的な何かが体の中を駆け抜けたような感覚に陥った。

息がうまくできない。彼から目を離すことができない。

 

後方の座席だったから彼の姿は小さくしか見えていなくて、表情まではとらえることができない―――はずなのに、叫びを終えた彼が会場を眺めて満足そうに微笑んだのが、なぜかわかった。もうそれですべてが決まってしまった。

 

突然フラッシュを焚かれた時みたいな眩しさに目がくらんでいたら、彼に強引に攫われて、不安な気持ちもなにもかも吹き飛ばされて、ただひたすら楽しい世界に連れて行かれてしまった。

 

それからずっと私は彼に攫われたまま、目がくらんだままでいる。

 

 

 

何かブログを更新したいなあとずっと思ってはいたのだが、NEWSへの愛情は凪いだ海のように穏やかに安定している。私は感情があふれてどうしようもなくなると文章として吐き出すタイプなので、NEWSの3人に絶大な安心と信頼を寄せている今は、長文を必要としていないのだった。

NEWSに対する気持ちがひとつの到達点のようなところにある一方で、心をめちゃくちゃにされるコンテンツも登場した。つまり簡単に言うと、沼が増えた。

 

Twitterを見てくださってる方はご存知のとおり、2年ほど前から東大卒の某クイズ王にメロメロになっているが、まあそのことについて書くことはないと思う。というかシンプルにガチ恋なので書けるようなことがない。

今日書くのは、その伊沢拓司率いるQuizKnockという組織のYouTubeチャンネルを見る過程で出会ってしまった沼の話である。

 

もともとYouTuberにはかなり疎く、QuizKnockを見る前はヒカキンもはじめしゃちょーも東海オンエアも見たことがなかった。そんなわけで当然「夕闇に誘いし漆黒の天使達」なんて人たちのことは見たことも聞いたこともなかったが、QuizKnockの動画を見まくっているうちに、そのわけのわからない名前の集団とのコラボ動画へたどり着いた。

QuizKnockからしたら夕闇はYouTuberとして大先輩、そしてQuizKnockの面々は夕闇の大ファンなのだと言うので「この人たちが好きと言うのだからきっと賢くて面白い人たちなんだろう」と、肯定的なバイアスがかかったのは確かだ。そのせいもあるだろうが、QuizKnockと夕闇とのコラボ動画は本当に面白くて、一気に好印象を持った。

チャンネル登録者数は60万人ほどだが、YouTuberとしてはけっこうな古株で、東海オンエアの後輩分という形で有名になったらしい。そして本職はバンドマンらしい。時々夕闇の動画を見るようになり、ある程度夕闇の情報を把握した頃、そういえば本職の音楽ってどんな感じなんだろうな〜と思い検索してみたら、めちゃくちゃ面白くてテンション上がる楽曲で驚いた。へぇ、好きだな! 良いじゃん! と思ったが、この時点ではまだ彼らの音楽活動についてまではさほど興味がなかった。

動画の方は日に日にハマっていき、メンバー4人のキャラクターに魅力を感じてからは過去動画まで遡るようになり、毎日毎日夕闇ばかり見ている状態になった。

 

ある日、ジャニオタとしてつながって親しくしているフォロワーが「ついに来てしまった」と、どこかのライブ会場に行っている写真をTwitterにあげていた。その写真に写っていたのが夕闇のグッズだったので、思わず反応してしまった。

「夕闇のライブ!? てか夕闇好きだったの!?」

「そうです〜! はじめて行ってきます!」

楽しんできてね〜。とリプを返しつつ、思いがけず近い存在の人が夕闇のライブに行っているのを見て「そうか、バンドだもんな、ライブがあるんだよな」と目から鱗が落ちるような気持ちだった。お笑いでも演劇でもスポーツでもジャニーズでも、私はとにかく「ライブ」が何よりも好きなのだ。

なぜか全然思い至らなかったけど、こんなに大好きで、毎日動画を見てる人たちを生で見られる場所があるんじゃないか。バンドのライブはほぼ経験がないからちょっとビビるけど、次ライブあったら行ってみよっかな!

そう思った数週間後、ワンマンツアーの知らせが届いた。

軽いノリで関東の会場をいくつか申し込んだら、大きい会場の日程だけ当選した。

 

そして。

本記事の冒頭に戻る。

 

 

*  

 

はじめて行ったライブで魅了されたあの日から、私はバンドマンとしての夕闇に心底惚れ込んでしまい、もう夕闇のライブ無しではいられない体になってしまった。

今年2022年はバンド活動を精力的にしていきたい。そんな豊富を語っていたとおり、夕闇は月に2、3のペースでライブを行っている。1月なんてツーマンライブを主宰していたので6回(3週連続土日)もライブがあった。小さい箱で開催されるのでチケットは毎回激戦で、全滅して絶望することも多々あるが、なんとか月に2回くらいは彼らの音楽を浴びに行くことができている。

そうやってライブに行き続けて、毎回脳汁がジャバジャバになって帰宅するうちに、ふと「なんか夕闇のライブ行ったあとの満足感って、ちょっとNEWSのコンサート後の気持ちにも似てるな……?」と気づいてしまった。

 

NEWSを好きな感情と夕闇を好きな感情は全く別物である。ただ「ライブの楽しさ」という点においてのみ、「そりゃ私は好きだよ!!!だってNEWS担だもん!!!」と思ってしまう共通点がチラホラあり、今日はそれを少し書きたくてブログ編集画面を開いたのだ。

YouTuberとしての魅力、メンバーそれぞれの魅力、そして私がここまでズブズブになった大きな理由である推しーーー小柳氏の魅力などなど、夕闇について語りたいことは山ほどあるのだが、今日は

「NEWS担が『夕闇に誘いし漆黒の天使達』というバンドのライブを好きになるべくして好きになったわけ」を伝えたいと思う。

そう、ここからが本題です。数億年ぶりにブログ書いたけど相変わらず私の文章は前置きがクソ長いな!!

 

 

 

一応大前提として、夕闇がどういうバンドなのかだけ簡単に。

バンド名『夕闇に誘いし漆黒の天使達』

そもそもなんやねんこの名前、って感じですよねわかる。バンド名変えたい(I want to change the band name)って曲があるくらい本人たちもネタにしている。

「ゆうやみに いざないし しっこくの エンジェル」と読みます。さそいし、じゃないし、てんしたちでもエンジェルズ、でもなくてエンジェルな!

ボーカル(小柳)、ベース(ともやん)、ギター(ミスター千葉)、ドラム(にっち)という4人編成のバンド。ギターの千葉以外の3人は高校の同級生で、高校の軽音楽部でバンドを組んだのがはじまり。

ジャンルとしては「コミック系ラウドバンド」ということで、ラウドロックとはなんぞや、コミックバンドとはなんぞやということについては説明できるほどの知識を持ち合わせてないので、ご興味があれば調べてください……丸投げですまない……。

つまりデスボイス(スクリームとかグロウルとか色々あるらしいけどいわゆるシャウトみたいなもの)で歌うようなゴリゴリの楽曲だけど、歌詞とかふざけてて面白いことする人たち、って感じです。
どんな音楽かは聴いてもらうのがいちばん手っ取り早いと思うのでまずはこちらをご覧ください。

 

youtu.be


えっ……いい曲……めっちゃいい……めっちゃ好き……。
なんとなく、ラウドロックと聞くと激しくて怖いイメージだったけれど、こんな感じでクリーン(普通に歌う部分)とシャウトが混ざっていて曲調もわりとキャッチーなので、私はすんなり馴染むことができたが皆様はいかがだろうか。

上記の曲は歌詞が表示されなくてコミック要素が伝わりにくいのでこちらも。

 

youtu.be

 

と、まあこんな感じでふざけた曲をやる人たちである。

以上の前提をふまえて、NEWS担の私がなぜ夕闇のライブにどハマリしたかという理由をいくつか挙げていく。

 

 

【NEWS担好きポイント① シンガロングがめっちゃ多い】

 

シンガロングというのはジャニオタでいうところのコール&レスポンスみたいなもの。合いの手の掛け声だったり、一緒に歌うパートだったり。

色々なジャニーズのコンサートへ行ったが、NEWSは中でもオタクの仕事が多い。めちゃくちゃ歌わされるし、合いの手を入れされられる。コンサートでいきなり「新曲です!一緒に歌ってね!」と言われ、初聴きなのに歌わされるという無茶振りすらあった。なんとかなったけど。NEWSの新曲が出ると何も言われなくてもオタクは「なるほどここは我々のパートだね」と勝手に把握する習性がある。

 

で、夕闇である。ま〜〜とにかくオタクのパートが多いのだ。

 

youtu.be

 

こちらは夕闇の代表曲である猫サンキューという曲。ほぼ全メロがシャウトでありながら、ひたすら猫がかわいいってことしか言っていない歌詞のおかげでポップに仕上がっている名曲である。

この猫サンキューの歌詞を途中まで引用してみよう。

 

最近大体みんな飼ってる 5人に1人が猫飼ってる

(可愛い可愛い超可愛い)(可愛い可愛い超可愛い)

老若男女問わず飼ってる 世界各国でみんな飼ってる

(可愛い可愛い超可愛い)(可愛い可愛い超可愛い)

ガチ早起き ガチ夜更かし チョコ ネギ類 ガチダメ

(マジそれ マジそれ)

水分補給めっちゃ下手 舌めちゃくちゃザラザラ

あーよっしゃ 猫サンキュー

感謝感謝マジで感謝 可愛い姿に癒された

猫猫猫猫サンキュー!猫猫猫猫サンキュー!

感謝感謝 マジで感謝 寂しさ忘れさせてくれた

猫猫猫猫サンキュー!猫猫猫猫サンキュー!

CATS (シーエーティーエス)キャッツ!

CATS (シーエーティーエス)キャッツ!

CATS (シーエーティーエス)キャッツ!

NEKO (エヌイーケーオー)ねこ!

 

太字の部分全てオタクも歌うパートである。いや、改めて書き起こすと多いな!?

これだけシンガロングが多いと、ただ受け身なだけでなく自分も参加しているという一体感を強く感じる。

もちろん、今はコロナ禍のため声出しはできない。私が夕闇のライブに行くようになったのは去年からなので、実際のところ私はまだこの声を喉から発したことがないのだ。

それでも心の中で叫ぶだけで、楽しくて楽しくて快楽物質がドッパドッパ出る。何も余計なことなど考えず、頭がからっぽになって、ただひたすら「最高に楽しい!!!」という感情しかなくなる。いつかまた声が出せるようになったら、更に更に楽しい世界が待っているかと思うと、その日まで絶対に健康で生きるぞという気持ちを新たにするのである。

 

 

【NEWS担好きポイント② 振り付けもめっちゃある】

 

NEWS担は歌わされるのと同時に手のフリやクラップも本気でやる。チャンカパーナのサビの振り付けは必修科目。ドームで5万人のペンライトが綺麗に同じ弧を描く星をめざして。ダンスレッスンまであったLove story。

踊りや振り付けとまでいかなくとも、同じ方向にペンライトを降ったり、同じタイミングでクラップをしたり、私はコンサートでのそういう一体感が大好きだ。

 

夕闇はバンドなので、私のイメージでは拳を突き上げるとか、ヘドバンとか、とりあえず各自バラバラに楽しむのかなと思っていた。実際小柳はMCでよく「楽しみ方は自由だ」と言ってくれる。

ただ小柳は客席を巻き込んで盛り上げる能力が異常に優れている。結果「小柳のマネして動いてると客席と舞台上との物凄い一体感を味わえる」という現象が起こるのだ。

いちばん最初に貼った「Super Ultimate Happy Happy Song」という楽曲では、サビで両手を右、左と順番にあげていく動きが定番だし、「Q.O.L」という楽曲では腕でアルファベットの「Q」「O」「L」という形を作ったり、1億円が欲しいと歌う歌詞で指で1を作って左右に振ったりする。配信などで引きの映像を見ると会場が綺麗に同じ動きをしていて壮観だ。

 

なんなら普通にダンスを踊る曲もある。

 

youtu.be

 

こちらは夕闇の中でもいちばんの代表曲だが、前半はタオルを回すアゲアゲのメロディ、そして後半は「ダンスパート」と呼ばれ、ドラムもベースもギターも楽器を置いて前に出てきて全員踊るのである。

上記のMVよりライブ映像のほうが雰囲気がわかりやすいので、ベースのともやんサイドからのカメラだがお時間ある方は是非こちらをご覧いただきたい。まだコロナ前、声が出せていた頃のライブ映像なので、オタクがどれだけ声をだしているか、どれだけ踊っているかが伝わると思う。

 

youtu.be

 

もう完全に酒飲みながら踊るクラブのテンション。終わる頃には汗だくになり、日常の嫌なこととかどうでもよくなるくらいスッキリする。

 

また、つい最近出た新曲ではついにプロの振付師によるそこそこ複雑な振り付けが付いてしまった。

 

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この曲を初披露するライブの前日にYouTubeを再生しまくり死ぬ気で練習して覚えて行ったが、なんと演奏前に小柳先生による丁寧なダンスレッスンがあった。

あれ……デジャヴュ……? なんか私、NEWSに同じことをされたことがあるような気がする……。

ラウドロックバンドのライブ行くのに「振り付け覚えなきゃ」って言ってた時点で意味がわからなかったのに、手厚く振り付けの練習までさせられて、私今日NEWSのコンサート来たんだっけ? って気持ちになった。

 

しかも!! しかもだよ、これは本当に声を大にして言いたいのだけど、シンガロングや振り付けをすると、めっっっちゃ褒めてくれるんですよ!!!

 

前述の新曲初披露の時は、練習の成果か初めてとは思えないほどオタクたちの振り付けが綺麗に決まり、間奏のタイミングで「満点!!」と言ってくれた。

いつもいつも、小柳は間奏のたびに「いいね!」「最高!」「ナイス!」って叫んでくれる。この感じもNEWSで得られる幸せと同じだ、といつも思う。「みんなも歌って!」と言われ会場が返すと「じょうず♡」と甘やかしてくれるあの感じと。

小柳は見ためも言動もオラついているし、MCでファンに対しての感謝とかアツいことを語るタイプではない。けれど、ライブに行くと確かに、あ〜、愛されてんなぁ。って感じてしまうのだ。

 

 

【NEWS担好きポイント③ 楽曲の幅が広い】

 

私は音楽に明るくなく細かな技法の違いはわからないので、バンドによっては「同じような曲ばっかりで飽きてしまう」ということが時々あった。特にデスボイスが使われるような激しい系の曲は、大変失礼ながら「結局どの曲もずっと叫んでるんでしょ?」という先入観がぬぐえなかった。

ところが夕闇の曲を聞いてみると、デスボイス多用でゴリゴリにかっこいい曲もあれば、ほとんどクリーンな歌声でポップス寄りの楽曲もある。

前出の、ダンス振り付けのある新曲「時給アップアップソング」もそうだが、企業のタイアップ案件で楽曲を依頼されることがあり、そのような時は万人に好まれそうな爽やかで明るい曲調の曲を作ったりする。

 

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↑こちらはinゼリーのタイアップ曲。WANIMAとかが歌っていてもおかしくないと個人的には思っている。

 

また、3年前からは毎年の恒例行事として、エイプリルフールに「ラウドバンドとしての活動を終了して、新しいジャンルのバンドとして生まれ変わる」というネタを発信している。ネタとしての解散→再結成動画を出すだけでなく、本当にジャンルの違う新曲をガチでリリースする。3年前はボーカルユニットに転向すると言ってただ4人が歌うだけの曲を作り、去年はピアノバンドになると言って弾き語り風の曲を出し、今年は1996年にタイムスリップしたといって(?)懐メロ風バンドサウンドの曲を出した。しかも、どれもが一発限りの企画ではなく、その後もきちんとライブで歌い継いでいくのだ。それゆえライブでは、激しいラウドロックサウンドの後に急なピアノ曲が始まるなど情緒がおかしいことになることも多く、その自由自在なセトリも魅力のひとつである。

 

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↑おととしのエイプリルフールのネタで出した新曲。ギターもベースもドラムも楽器を捨てて4人横並びになって大真面目に歌う。何も知らずに曲だけ聞くと「GReeeeNの新曲かな?」って思うし、この曲をライブで歌っているところを見たジャニオタの友人は「えっ急にNEWS出てきたんだけど何!?」って爆笑していた。そう、この曲はほぼGReeeeNに楽曲提供をしてもらったNEWSみたいなものなんです。本当なんです。

 

NEWSが、UR not aloneのような王道の応援歌も、チュムチュムのようなトンチキ曲も、夜よ踊れのようなスタイリッシュな曲も変幻自在に提供してくれるように、夕闇の曲もバラエティに富んでいて全く飽きることがない。それが夕闇というバンドに魅了された重要な要素なのである。

 

 

【NEWS担好きポイント④  個性豊かな4人組】

 

ここまで、ライブや楽曲について夕闇の好きなところを語ってきたが、最後に少しだけ、4人のパーソナリティな点についても触れたい。

私は、どんなに楽曲やパフォーマンスが好きでも、それを表現している人自体に猛烈な興味と愛情を持たなければ、ただ「好きだなあ」となるだけで、ここまで全身全霊で追いかけるまでには至らない。つまり「沼」の深みにまで嵌るには、まずなによりもその人たちのことをーーーグループだったら全員のことをーーー大好きになるのが絶対条件なのだ。

 

そもそも私は4人組にめっぽう弱い。NEWSを好きになったのも4人の時だったし、それ以前も「4人組」というバランスに無性に惹かれてしまう傾向があった。ファミコン世代だからだろうか。ドラクエファイナルファンタジーも、物語の主人公はいつだって役割の違う4人パーティーだったから、そういう存在を求めているのかもしれない。

夕闇の好きなところのひとつに、4人が4人とも違う血液型、というのがある。しかもそれぞれがとてもわかりやすく、血液型占いで分類されそうな性質をもっている。几帳面で真面目なにっち、リーダー格ですべての中心となる小柳、おおらかなともやん、天才肌の千葉ちゃん。そういえば家族構成も全員違う。妹のいる兄、弟のいる兄、兄のいる弟、ひとりっこ。

血液型で性格をはかるのがナンセンスであることは承知だし、当然それが全てとは思っていないが、本当に4人とも綺麗に異なった役割と長所を持っていて、それでいて共通する性質や志のようなものも垣間見える。

見れば見るほど、その奇跡的なバランスで構成されている4人全員のことが、大好きで大好きでたまらなくなる。見た目はいかついバンドマンで、若さゆえの暴走で炎上とかしそう……という雰囲気なのに、実はコンプラ意識がしっかりしていて、根本的に賢い人たちなのだなぁと思う。

本職はあくまでバンドでYouTubeはバイト、などと言ったりもするが、YouTubeについても必ず週6で更新するところに真摯な姿勢が伺えてしまう。バンド活動でライブをやって、曲も作って、MVなんかも撮って、本職だけでもかなり多忙なはずなのにどちらも両立させているところも、考え方に筋が通っているところも、本当に心から尊敬しているのだ。

 

 

 

 

それぞれのメンバーの性格とか関係性の好きな所を語りだしたらあと10000字はかかるので今日は触れないが、本当に本当に、何度も繰り返すけれど、全員が大好きで愛しくて、その大好きな人たちの曲が、パフォーマンスがこれまた大好きなものだったから、私はここまでズブズブに夕闇という沼にハマってしまった。

 

今回、こんなブログを書いたのは、別に夕闇のファンを増やしたいとか、ましてやチャンネル登録してほしいとか、そんなおこがましい気持ちではない。

 

 

NEWSについてのことをいくつか書いて、何人かには読んでもらっているこのブログで。このブログをきっかけにTwitterをフォローしてくれているNEWSファンの人がそれなりにいる中で。

NEWSを大好きな私が、またひとつ大好きなものが増えたよ、ちょっとNEWSを好きな理由と似ている部分もあるんだよって話すことで、そっかそれはよかった、自分は興味ないけどなんだか楽しそうだね。って思ってくれる人がいたらいいなぁ、と、そういう気持ちで書きました。

 

 

つまりはこのツイートの通りです。たくさんYouTubeの曲を貼ったけれど、全然再生しなくていいです(笑)

 

でも最後にひとつだけ。

 

冒頭に記した、私がはじめて夕闇を見に行った日のライブ映像が、ダイジェストとしてYouTubeに上がっている。

イントロでメンバーが舞台上に入ってくるところがちょうどおさめられているので、私の心の中に、小柳翔汰という人間の強烈な光が入り込んできた瞬間がバッチリ入っているのだ。

 

またまた、そんなピンポイントで恋に落ちる瞬間なんてあるの? いっちょ見てやろうじゃねえの! という奇特な方がいらっしゃったら、どうそ。

0:30からがイントロ。

そして1:13。ようこそ!の後に、フッと笑った瞬間。これが、私が恋に落ちた瞬間です。

 

 

好きな理由を長々と書いてきたけれど、ほんとうは、ライブに通う最大の理由は、この人のこの表情が見たいからなのかもしれない。

 

 

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そのうち気持ちがどうしようもなくなったら、小柳のことが好きだ!ってだけの記事書くかもね。まあでも多分自分の中でなんとか処理するとは思う。

 

晴れの空に抱かれて

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病室の窓からは千葉の海が見えた。空はずっと雨模様だった。

 

 私は長期的な記憶力が著しく劣っている。学生時代の同級生と修学旅行の話なんかをしても私だけ何一つ覚えていないし、当然もっと幼い頃の記憶などほぼ皆無なので、母は生前よく「あんたが小さい頃、色んな所に連れて行ってあげたのになーんにも覚えてなくて悲しい」とぼやいていた。

そんな私でも、当時の記憶を詳細に覚えている出来事がいくつかある。ある時は夏休みの宿題で、ある時は趣味のブログで、自分の気持ちを文章として残している場合だ。

 父親が死んだ9歳の時も、初めて飼った猫が死んだ15歳の時も、洗脳されるほど好きだった人と別れた26歳の時も、私はその時の感情を文章に残していた。時々それらを読み返し、そうだこんな風景だった、と当時のことを思い出す。テスト勉強に大切なことが「復習」であるように、自分の書いたものを繰り返し読むことで記憶が抜けていかないように定着させている。勿論、たとえば「父が死んだ」という事実はそんなことをしなくても忘れるはずがない。しかし、休み時間に担任の先生から知らされて「うそっ」と喉から飛び出した声が思いのほか大きく階段の踊り場に響いて気まずくなったことや、病室へ駆け付けた時に中に入るのを一瞬ためらって、入口の白い壁に目をやって呼吸を整えたことなど、当時の細かな感情や景色は、そういう描写として残された文章を読むことで補完されるのだ。

 

今から私は、人から見たら「そんなことわざわざ書かなくて良いのに」と思われるであろうことを書く。

昔のことをどんどん忘れてしまう私が、いつまでもこの記憶を、風景を、感情を、できるだけ細かく覚えていくために。私だけのために書く。

 

では自分だけが見られる日記帳にでも書けばいいではないか、というところではあるのだが、高校時代の恩師の「この世の文章は、たとえ日記でさえ、誰かに読んでもらうことを想定されている」という説をわりと信じているので、こういう場所で書くことにした。私のためだけに書く、だけど誰かひとりでも読んでほしい、私のために。

これはそういうエゴだけの文章だ。

 

 

 

 ここ数カ月、私は妊婦だった。

 はじめての我が子は、生きて生まれてくることができなかった。

 

 

 

 ここからは、死産についての詳細な話を綴っていく。いま妊娠されていて不安を覚える方、かつて悲しい経験があり辛い記憶を呼び起こしてしまう可能性がある方など、色々な立場の方がいらっしゃると思う。そうでなくてもショッキングで生々しい描写が出てくるので読んで気分を害されることもあるだろう。どうかそういう方は地雷を踏み抜く前にここから先の文章を避けていただければ幸いです。

もし読んでくださる方も、信じられないくらい長文であることを予めご了承ください。本当にダラダラと順を追って記憶を書き留めるだけの、まとまりのない文章なので。

 

 

 33歳の時に1つ年上の夫と結婚したが、Twitterやブログでも公言していた通り、我々夫婦は子供を持たないという選択をした。誰かから子供のことを問われれば「うちはDINKsDouble Income No Kids)なので」と答えていた。

理由はいくつかあったが「絶対絶対欲しくない」という確固たる意志というよりは、いない方が諸々好都合だよねぇ、という消極的でふんわりした感覚が3割くらいと、経済的な考えが7割からの結論だった。

ところが3年前、理由の大部分を占めていた経済的な状況に変化が訪れた。そこで改めて夫と話をしたところ、「まあ、今後は避妊はしなくてもいいか」という流れになった。

その時点でもう私は38歳になるところだったので、あなたが子供を欲しいなら私も賛成するけれど、年齢も年齢だから避妊やめたくらいでは出来ないと思うよ?と伝えると、別に不妊治療まではするつもりがない。自然にしていてできたらそれでいいし、できなかったらできなかったで今まで通りの生活が続けられるのだからかまわない、との返事が返ってきた。

それを聞いて正直私は、ラッキー、と思った。自分がマトモに生きていないのに、子供なんて育てられるはずがない。どう考えてもこの先の人生、子供をもたない方が自分のためにも世の中のためにもなる。唯一の気がかりは夫の気持ちだったので、もし夫が本気で欲しい素振りを見せてきたら、夫のために産もう、と考えていた。

しかし夫はそれ以上動くことはなかった。毎月、生理がくればそれとなく伝えていたため、本気で欲しいなら排卵日くらい気にしてくるのではと考えていたが全くそんな発想はないようだった。そもそも出会って10年以上経つアラフォーなので性生活自体がほとんど無い。「避妊はしないが、かといって子作りするわけではない」というのが我々夫婦の実態だった。

 

そんな感じで更に月日を重ね、40歳という年齢が近付いてきた頃から、私の体に明らかな変化が現れた。今まであまり重くなかった生理痛が酷くなり、毎月不正出血がおこる。38日前後と長かった生理周期が28日くらいになる。検診では子宮筋腫を指摘され、月の半分くらいは下腹部に不快感、という状態になった。

ああ、もう40歳だものな、女としての役割が終わりを迎えつつあって、ホルモンが暴走してるのかな。と、実感した途端、なんだか急に胸がザワザワし始めた。

 

私って、まだ妊娠できるのかな。このまま一度も妊娠しなくて本当にいいのかしら。

 ふとそんな思いがよぎる。いやいや何考えてるんだ、子供ほしくないし。子供苦手だしいらないって思ってたじゃん、とすぐに打ち消すが、不正出血を見るたびモヤッとした気持ちが発生する。検診は受けている。小さめの筋腫以外に問題はないと言われている。健康に不安はないはずなのに「40歳」という年齢と「リミット」という言葉が目の前をチラつく。

なんとなくモヤモヤした気持ちを持てあまして、40歳を過ぎた頃に婦人科を受診した。そこは不妊治療を専門に行っているクリニックで、卵子の数など妊娠可能性についての検査が出来るところだった。

結果として、私の卵子の残量は年相応。つまりほとんど残っていない。妊娠の可能性が無いわけではないが、もし子供を望むならタイミング法とかすっとばしていきなり体外受精を検討すべき、ということだった。それもリミットは43歳まで。それ以上だと確率もほぼなくなり、国からの補助金もでない、と。

 あなたもう妊娠できませんよ〜と言われたらスッキリするかなと思っていたが、どうやら微小ながら可能性は残されているらしい。

ますますモヤモヤするようになったが、私はこれを夫に伝えることはできなかった。なんとなく、子供のことについて話をすることから逃げていた。こんな話をして、子供が欲しいと思われたくない、という気持ちがあった。夫が本気で欲しがらなければ私はいらない、と、自分に言い聞かせていた。

 多分、お金もないのに自費で検査をしたくらいだから、この頃から私は子供を欲しい気持ちが生まれていたのだと思う。だけど今更だから。もう40だから。夫もそれほど乗り気じゃなさそうだから。と、言い訳をして、向き合うことから逃げていた。

 

夫とは生活リズムがズレていたので、この頃には寝る時間も寝る場所もバラバラだった。当然性的な接触も数カ月単位で無かったので、変わらず何事もない日が続いていく。そうこうしているうちにコロナが蔓延したり親が死んだりして、なんだかもうそれどころじゃなくなってしまった。

あ〜なんか一瞬子供欲しかったような気がしたけど、気の迷いだったな。どうせこの年でこの生活でできるわけないし、これからも変わらず好きなことして生きよう〜〜と、元来の能天気さを取り戻したタイミングで、生理が遅れていることに気がついた。

 

 そういえば、親が死んだあとのゴタゴタが片付いた頃、久々に土日ゆっくり夫と過ごせた日があった。振り返ってみれば排卵日あたりだった気がする。

まあ生理が遅れることはよくあるしな、と、予定日から1週間くらいは様子を見てみたが、なんというか明らかにただの遅れと雰囲気が違う感覚があった。

 

 本能的な確信をもって、検査薬を買った。

秒でバリバリの陽性反応が出た。

40歳と8ヶ月。人生初めての妊娠だった。

 

 

 *

検査薬にくっきりと現れた陽性の証を見た瞬間、わけがわからないくらい、とてつもなく膨大な「うれしい」という感情に襲われた。自分でも驚いた。私が、子供ができて、うれしいと思うなんて! 子供の頃から子供が苦手でずっと避けてきたこの私が!

今まであんなにも「子供はいらない」と考えていたのが嘘のように、とにかくこの子を無事に生みたい、そのためならなんだってできると思った。私に子育てなんかできるわけないしやりたくない、とずっとずっと考えてた気持ちが、一瞬でどうでもよくなった。生むし育てる。それしかない。その感情以外が消え去る。

 

一方で、この命が無事に生まれてくる保証はどこにもない、ということも冷静に理解していた。

医療従事者でこそ無いが、幼い頃から医学関連の本を読み漁り、会社員生活の大半を病院に出入りする業種に従事していたため、おそらく一般の人よりも医学的な知識はある方だ。それゆえ、今まで子供をもつ気持ちが無かったとはいえ、妊娠したからといって皆が無事に出産できるわけではないことは、よくわかっていた。

 

なんといっても超高齢である。40歳の流産率は40%なんていうデータも見たことがある。

受精して着床しただけでも宝くじに当たったような気持ちだったが、パチンコで言えばまだリーチがかかっただけの状態で、当たりの確定演出ではない。この受精卵が順調に育ってくれるかどうかは、生まれるまでわからないのだ。

 

 ところで、日常のあらゆることをTwitterに書いてしまう重度ツイ廃の私ではあるが、昔から決めていたことがあって、それは「もし子供を生んでも育児や子供の話はネットでしない」ということだった。子育ての話を書いている方のツイートやブログは大好きで楽しく見ているが、自分がそのような話をすることを想像したら非常に抵抗がある……というか似合わない気がした。無事に生まれたら「実は子供生みました〜」という報告だけして、あとは子供のことは一切呟かず、それまでと変わらずジャニーズやお笑いや料理の話だけ呑気に繰り広げる謎の自由なおばさんでいたかった。

 

「無事に生まれてくるかは、生まれるまでわからない」という危機管理意識と、上記のような信念めいた感情もあり、子供についてのことは明かさないままでいることにしたのだが、やはり正解だったなぁ、と今しみじみ感じている。

 

 

 *

検査薬で陽性反応が出た週末に病院へ行き、エコーの結果無事に妊娠が確認された。まだ6週だったので心拍は確認できなかったが、とりあえず子宮外妊娠などではなく、正常に子宮の中に胎嚢(受精卵の入った袋)があることがわかったので第一関門通過、といったところである。

 

その夜、夫へ報告をした。

びっくりなんだけどさ、妊娠したよ。と言うと、

「おぉ、できたのかぁ」と飄々と返された。まるで「ごはんできたよ」への返事みたいに、普通のテンションで。

予定日は今のところ12月4日だよ、とか、まだ初期だから流産する可能性も全然あるので覚悟もしておいてほしいとか、それにしてもこの年でまさかできると思わなかったよね、とか、しばし話をしていたら、夫がポツリと「俺もとうとう父親か〜」と呟いた。

変わらず普通のテンションで、淡々としていたけれど。

ああ、多分この人、すごくうれしいんだな。本当は父親になりたかったんだな、ということが伝わってきた。

私がもっと早く子供をもつことと向き合えていたら、もっと早く、少しでも若くリスクが少ないうちに妊娠していたのだろうか。もっと早く夫を父親にしてあげられていたのだろうか。いや、でも結局いましかなかったのだ。私達夫婦にとってこのタイミングしかなかったのだ。

天から来てくれたこの子を、なんとしても無事に生んであげたい。夫とふたりで生きてきたけれど、これからは3人で生きていきたい。改めて強く思った。

 

翌週また病院へ行くと、心拍が確認できた。エコーを見てもまだヒトの形ではなく、ただの丸い影なのだけど、ドゴンドゴンという早鐘のような音の心拍が聞こえて驚いた。すごい。生きている。生命が自分の体の中にいる。

おめでとう、妊娠してますよ〜。と改めて先生から伝えられる。自然妊娠?と聞かれ、そうです、妊活とかもしてなくて。と答えると、ちょっと驚いたような反応をされた。やはりこの年で何もアクションを起こさず妊娠するのは珍しいのかもしれない、だとしたらこの子は、私と夫になにかを伝えるために、奇跡的に来てくれたのだ、なんてスピリチュアルなことを考えてしまう。

 

妊娠が確定したので市役所へ母子手帳をもらいに行く。書類に「妊娠がわかった時どう思いましたか」という質問の欄があり、うれしかった、困惑したなどいくつかの選択肢があった中から「驚いたが、うれしかった」を選んだ。

面談してくれた保健師さんが「予定外だったけどうれしかったんですね、それはとてもよかったですね」とめちゃくちゃ優しく言ってきたのでなぜか泣きそうになった。そうなんです、子供を持つ気はなかったのに、ほんとにほんとにうれしくて。と答えながら、私は今まで味わったことのない種類の感情で満たされていた。それは一言で表せば「幸福」という類のものだったが、今まで知っていたどの幸福感とも違っていた。

 

 

 *

「9週の壁」という言葉がある。流産の多くは妊娠9週までに発生するのだそうだ。

妊娠してからというものの、1週間が過ぎるのが異様に遅く感じられてもどかしかった。毎日毎日、トイレに行くたびに、どうか出血などしていませんようにと祈る。今日も生きていてくれますようにと祈る。とにかく早く9週を超えてほしい、早く診察の日が来て生きていることを確認したい。

ただ、あまり不安だ不安だと思いすぎることもしたくなかった。初期の流産は誰が悪いわけでもなく「育たない運命の受精卵だった」という自然淘汰なのだから、誰にでも平等に起こりうる。もしそうなってしまったら、受け入れるだけのこと。その時に折れないだけの心構えを持つこと。毎日、無事を祈るのと同時に、覚悟を固める作業も行っていた。食べ物や生活も気にしすぎないように心がけ、極力いつもと同じように趣味を楽しみ、不安やストレスを抱えないように暮らしていた。

 

 妊娠10週と0日、待ちに待った検診の日。どうかどうか無事に生きて育ってくれていますように、と祈りながら診察台へ上がる。

うん、元気ですよ〜。という先生の声に一気に力が抜けた。エコーのモニターを見ると、ただの輪っかのようだった卵は形を変え、ちょっとだけヒトっぽくなっていた。心臓は相変わらずドゴンドゴンとすごい早さで(胎児の心拍数は早い)動いている。

血液検査の結果も全部問題ないですね、風疹の抗体もあるし感染症もないです。じゃあ次は1ヶ月後に。ということで、5分で診察は終了した。予約をしても1時間以上待つ割にはあまりにあっさりしているが、異常がなくて早く終わっているのだから非常にいいことだ。

とにかく9週を越えた。少しだけ安心した。次なる関門は12週である。12週を超えれば流産の危険性は更にグッと下がる。次の検診は1ヶ月後、14週0日の日なので、そこで無事を確認できたら義両親にも報告しようと決めた。

(義両親が本当は孫を望んでいることを知っていたので、ダメだったとき悲しい思いをさせてしまわないように、安定期頃までは黙っていることにしていたのだ)

 

時の流れを異様に遅く感じる日々がまた始まった。早く、早く1ヶ月経ってほしい。毎日をじりじりと過ごし、11週、12週と経過した。出血や腹痛などは起こらなかった。幸い、つわりはそんなに重い方ではなかったが、それなりに悪心やめまいなどがあり体調は悪かったので、つわりの症状があるということはお腹の子が生きているということだ、多分そうだ、という希望的観測だけで毎日を過ごした。

そのうち、手持ちのジーンズが入らなくなるほどお腹が出てきた。2着だけ持っていたウエストゴムのスカートでしのぎながら、また少し安心をする。お腹が出てきているということは、育っているということだ、きっと。

次の検診が終わったらマタニティウェアを買いに行こう。

義両親への報告、マタニティウェアの購入、会社の人事への産休・育休申請。「次の検診が終わったらやることリスト」がどんどん増えていく。夫は、一緒にキャンプ行きたいから男の子がいいな〜、でもまあどっちでも俺たちの子ならキャンプ好きになるか!なんて言い出した。着々と「未来」を見据える時間が増えていった。

 

ダメだった時の覚悟を決めておこう、という不安な気持ちを忘れた日は決してない。なかったが、12週を越えたあたりから、若干心に余裕が出ていたのは確かである。

いちばん危険な時期は脱した。奇跡的に来てくれた命なのだから、きっと生まれてくるに違いない。死んだ母親も守ってくれている気がするし、40歳の子宮っていうこんなボロ家にやってきて、文句も言わず10週もすくすく育ってくれたのだから、強い子に違いない。言霊を信じている私は、大丈夫、きっと元気に生まれる、と思うようにしていた。

 

長い長い4週間がようやく終わり、検診の日が訪れる。

 

 

 *

私の通っていた産科はものすごく混んでいて、先生はいつも時間に追われている感じだった。診察室へ入ってすぐ診察台に寝かされ、ババっとエコーをし、はい大丈夫です〜、で終了。漫画「コウノドリで見たような丁寧な聴き取りなど皆無だったが、個人的には先生のサバサバした感じが気に入っていたので問題なかった。

その日の検診も、はいじゃあお腹見ますね〜と寝かされ、あれよあれよとジェルを腹にぶちまけられて、すぐに画像がモニターに現れた。あ、すごい。めちゃくちゃ人間になってる。頭も手足もあってコロンとしてる。かわいい。

 

すごいなぁ、大きくなってるなぁ、と思った瞬間、先生が口を開いた。

その時の先生の声色が、いつまでも耳に残っている。

 

「あ〜……桐ノ院(仮名)さん、ごめーん…… 赤ちゃん元気なんだけど……」

 

 ごめん?

ごめんって何だ?

もしかして、心拍止まってるのかな。あ、でも、赤ちゃん元気なんだけど、って言ったよな? じゃあ生きてるか。けど、けどってなんだ???

 

 「元気なんだけど、胎児浮腫だぁ。前回はわからなかったなぁ……」

 

はぁ。

間の抜けた返事をしてしまった。タイジフシュ。フシュは多分浮腫だろう。つまり、むくんでいるということか。元気なんだけど、ってことは、深刻なことではないのかな?

 

「ほら、これが赤ちゃんなんだけど、全体が膜みたいに分厚くなってるでしょう。これ全部水なの。体中が水の膜で覆われてるみたいな感じなの。多分先天性の心疾患か、染色体異常か、わからないけれど……」

 「えーっと、むくんでいる、ってことですよね。えっと、心臓は動いてるんですよね? 生きてるんですよね?」

「うん、今は元気だよ、ほら」

 先生が心拍の音をスピーカーで出してくれる。4週前と変わらずドゴンドゴンと力強い音がする。よくわからない。ええと、すみません、つまり、どういうことですか?

 「……多分このままだと22週……22週っていうのは、早く生まれてきちゃった時に、助かる可能性があるギリギリのラインなんだけど、22週より前に亡くなってしまうと思う。17週、18週くらいかな……。もし22週を超えられても、出産に耐えられなくて生まれるときに亡くなってしまうと思うし、奇跡的に生まれてきたとしても、後遺症なき生存は出来ないです」

 

 先生の言葉があまり処理できないまま脳を通り過ぎていく。さっきまで「赤ちゃん元気なんだけど」という言葉にひっぱられてたいした異常ではないと思っていたが、どうやら違うらしい、ということが、必死に脳の回路を繋いで徐々にわかってきた。

つまり、この子は。生まれてこれない運命の受精卵だった、ということだ。

9週も12週も越えられたけれど。越えられたのに。こんなに人間の姿に成長したのに。

 

 いきなりこんなこと考えられないと思うから、ゆっくりでいいけれど。と、前置きをしつつ、先生は「これから」の説明をする。

 「今回は残念だけど妊娠継続を諦めるということであれば、中期中絶という形になります。で、もう14週だから、中絶と言っても簡単なことではなくて、普通のお産と同じように生んであげなければいけないんですね。入院して、子宮口を開いて、強い陣痛促進剤を使って陣痛を起こして出産するわけです。まだ命があるのに……という気持ちに勿論なると思うけれど、桐ノ院さん、もう41歳になるからね……。次の妊娠を望む場合、できるだけ早く生理を復活させるには、できるだけ早く、という考えもあります。

 あるいは、命があるうちは抵抗がある、できるだけお腹の中で育ててあげたい、ということであれば、お腹の中でお亡くなりになった後に、亡くなった赤ちゃんを生んであげるということになります。

いずれにしても処置の方法は一緒で、陣痛を起こして出産するという形です。で、申し訳ないけど、うちの産院ではその、陣痛を誘発するための強いお薬は扱ってないので、大きい病院に紹介するからそちらに行ってもらうことになっちゃうんだ」

 

 知ってる。中期中絶、あるいは死産のことはコウノドリで読んだから知っている。お産と同じ痛みと苦しみを味わうけれど、産声を聞くことは出来ないという辛い回だった。ああ、私、あの話と同じ経験をすることになるのか。あれ、何巻だったっけな。帰ったらもう1回読み返さなきゃな……。

 はい、はい、と返事をしながら、どこか上の空になってしまった。先生が、大丈夫? ショックだよね。と聞いてくる。

 「そうですね……。なにしろ高齢なので、何がおこるかわからない、っていうのはずっと覚悟していたんです。特に初期の流産はいつ起こってもおかしくない、って思っていて。でも、問題なく12週を越えたことで、最近は少し安心していたところだったので……」

 先生は、ご主人とも色々話をして決めてもらって、どうするか2週間後にまたお話しましょうと言って次の予約枠を押さえてくれた。今までの検診はコロナの影響で夫の立ち会いが認められていなかったが、外来終了後の時間を割いてくれるため、夫も一緒に行ってもいいという許可がでた。ご主人にも最後にエコーを見てもらいましょう、と。

 

 病院から家へと戻りながら、仕方ないよね、と何度も自分に言い聞かせる。こういう運命の子だったのだ。頑張ってここまで大きくなってくれたから期待してしまったけれど。受け止めるしかない。妊娠出産にはそう少なくない頻度でこういうことが起こる、ということは最初から理解していた。

帰り道、住宅街を通るのでたくさんの子供とすれ違う。この子たちはたくさんの奇跡が重なって、無事にこの世に生まれてきた子たちだ。私にもその奇跡が起きてほしかったなあ、と、ぼんやりした頭で思う。

 

 帰宅して、スマホで「胎児浮腫」について検索を繰り返した。何を見ても、先生から聞いた説明通り。大抵は子宮内で死亡し、出産できたとしても生存率は非常に低い―――。

夫から「今から帰るけど何か買い物ある?」と電話がある。特にないと答えるのが精一杯で、夕飯を作る気持ちにもなれず、ただボーッと座り込んでいたら、あっという間に時間が経って夫が帰宅してきた。

 

「どうした? 具合悪いのか?」

 

 ―――赤ちゃんね、ダメだった。

 

 口に出した瞬間、今まで出ていなかった涙がドバっと溢れてきた。

 

「そっか。ダメだったかぁ」

妊娠を告げたときと同じ、淡々としたテンションで、夫が呟いた。

 

今はまだ生きてるんだけど、心臓が悪いか、染色体に問題があるかなんかで、あと何週間かしたら死んじゃうんだって。それで、まだ生きてるけど早めに中絶をするか、いつになるかわからないけど、お腹の中で死ぬのを待って……待ってって言い方はどうかと思うけど、死んじゃってから出してあげるか、どっちか選ばなきゃいけないんだって。

 泣いてしまって途切れ途切れにしか喋れないが、なんとか状況を伝える。

 「わかった。とにかく、梓の負担が少ない方にしてほしい。少しでも負担が少ないのはどっちなのかな」 

 処置内容はどちらも変わらないから体の負担はおそらく大差がないけど、年齢のことや、いつ赤ちゃんが死んでしまって入院になるかわからないなか仕事をすることなんかを考えると、本当は早いほうがいいとは思う。ただ、まだ生きてくれてるから気持ちの整理が難しい。そんなようなことを話し、ひとまず2週後、一緒に先生の話を聞いたら最終的な回答を出そうということになった。

休んでなよ、食えたら食えばいいからと言って、夫は冷蔵庫の余り物で夕飯を作ってくれた。そしてふたりでサッカーを見て、バラエティ番組を見て笑って、いつもと同じように過ごした。

深刻にならないように振る舞っていたが、寝ようとして布団に入ったら抑えていた感情が再び爆発してしまう。夫は言葉少ないながら、私が落ち着くまで優しくなだめてくれた。大丈夫、大丈夫だから。と繰り返し言ってくれた。

 

今までの人生で、これよりもっと泣いた出来事もある。鬱病を患って、死にたいと思っていたこともある。今日はごはんを食べて、笑ってテレビを見ることもできたけれど、これ以上に悲しいことなんてひとつもなかった。

こんなに悲しいことがこの世にあるなんて知らなかった。

 

 

 

 *

仕事をしていても無意識にお腹に手を当てる。そして心で話しかける。ごめんね、体が浮腫んで心臓も苦しいよね。だけどもうちょっとだけ頑張ってね。あと2週間したら、あなたのお父さんにエコーを見てもらえるから、どうかそれまで頑張って生きてね。

1度だけでも、夫にこの子が生きている姿を見せてあげたい。一緒に診察に行ったときに心音を聞かせてあげたい。この2週間はただそれだけを考えて暮らしていた。

 

 6月21日月曜日、妊娠週数16週2日。夫と一緒に産院を訪れる。

エコー画像が映ると、心臓がピコピコ動いているのが見えた。

ああ、生きていてくれた。今日まで頑張ってくれた。

心音も聞かせてもらって、わかる?と 夫に聞くと、わかる、生きてるなぁ。と呟いた。

エコーで見た姿は、2週間前にも増して、素人目にも明らかにわかるほど浮腫が進んでいた。心不全を起こしてポンプ機能がうまくいっていないことが目に見えてわかる。腹水も溜まっていて、これは生きて生まれるのは難しいだろうな、というのが理屈抜きで実感できてしまうほど痛々しかった。

 2週間前と同じ説明を先生から受ける。

もう助からないと理解できました、夫にも生きている姿を見てもらえて踏ん切りがついたので、妊娠継続を諦めることにします。と伝えた。

先生はその場ですぐ、大きな病院の産科に電話をかけ受け入れ可能か確認して、紹介状を出してくれた。

 「最近は芸能人なんかでも、40歳以上の出産の話題がよく出るでしょ。それだけ、珍しいことじゃなくて当たり前のことになってるんですよ。今回は残念なことになってしまったけど、高齢だから必ずこういうことが起こるわけじゃないし、無事に生まれてくる子はたくさんいる。全然まだ次の妊娠の可能性はあるから、僕は産科医として、怖がらずにこれからのことを考えていいんだよとお伝えしたい」

 普段は忙しくて無駄な会話をしない先生が、手を膝に乗せてこちらを向いて一生懸命に話をしてくれた。精一杯励ましてくれていることが伝わってきて有り難かった。

今までのお礼を伝え、産院を後にする。お会計の時、分娩予約金(この病院で出産しますよという予約金を前払いしていた)が返金されてきて、そっか、もうここで生むことはないのか、と実感した。ちょっとお高めだけど、地域でも評判の綺麗で快適な産院らしいから、出産の時を楽しみにしていたのだけどな。

 

 紹介された病院に予約の電話をすると、先生が直接連絡をしてくれていたおかげで話が通っており、できるだけ早く来てくださいと言われた。4日後の金曜日に予約を取り、会社との調整などバタバタ過ごしていたらあっという間に当日になった。今まではあんなに1週間が長く感じられたのに、急に時間の流れが早くなった気がする。お腹の子と別れなければいけない日が凄いスピードで近付いてくる。本当はもっと長く、できるだけ長く一緒にいたいのに。

 

 

 *

6月25日金曜日。妊娠週数16週6日。

紹介された病院の診察台に横たわりエコーを受けるが、なんだかやたらと時間がかかる。ずいぶんと丁寧に見るんだなぁ、まあ前の産院の先生がいつも猛スピードだったからな、と思いつつ、先生は無言だし私の位置からモニターは見えないので話しかけてみた。浮腫がすごいですよね、いまどんな状態ですか?

 「うーん……前の病院での診察って、いつでしたっけ?」

「月曜日だから4日前です」

「その時って、赤ちゃんの心拍どうでしたか?」

「月曜日は心拍ありました。……えっ、もしかして今もう無いですか?」

 先生はカーテンを少し開けて、モニターをこちらに見せてくれた。

「この辺りが心臓で、動いていれば画面が点滅みたいになるはずですが、見当たらないですね……」

確かに、月曜日に確かにピコピコしていた場所に動きがない。

心音のモニターに切り替えると、いつもはドゴンドゴンという凄い音と共に、心電図の波が表示されるのだけど、「サーーーッ」という静かな音が流れ、波のない平坦な線が続いていた。どこからどう見ても「生命」の気配が消えていた。

 念のためのダブルチェックなのだろう。他の先生も呼ばれて、医師2人で画面を確認し、死亡していることが結論付けられた。

それを聞きながら私は、悲しみよりも、我が子に対する不思議な感動の方が勝っていた。

お父さんに心臓の音聞いてもらうまで頑張ってね、生きてお父さんに会おうねって毎日毎日言い続けたから、月曜日まで頑張って生きていてくれたんだ、きっと。

そして、命があるうちに中絶をすることに葛藤していたのを見透かしたかのように、この僅かな間にその幕を閉じてしまった。なんて、なんていう子なのだろう。

 

 医師の説明文書は中期中絶のものが用意されていたので、先生が「中期中絶」の文字ひとつひとつに二重抹線を引き「分娩誘発」と書き換えながら説明をしてくれる。入院して、器具で子宮口を開いて、薬で陣痛をおこして出産します。こんなリスクがあります、云々。知識として知ってはいるが、改めて聞くとやはり怖い。痛いんだろうなあ。出産の痛みって子供に会えるって気持ちでなんとか頑張れるって聞くけど、お別れのための痛みはしんどすぎるなあ。

 「土日からの入院はできないので、月曜日から入院してください」

 急すぎて驚いた。産後そのまま8週間の産休を貰う(なんと死産でも産休は取れるのだそうだ。全然知らなかった)ことが決まっていたので、さすが休みに入る前に1度会社に行っておきたい。

死亡した胎児からの分解成分が母体に影響を与えるため、できれば早く処置をしたほうが良いらしい。とはいえ諸々準備もしたいので、6月30日の水曜日から入院ということで交渉し、OKを貰った。

 

 週明け、会社へ行き荷物をまとめ、関係各所に長期休みの挨拶をする。

帰りがけ、妊娠発覚からずっと気遣って支えてくれた上司が、手紙とお守りをくれた。突然休むことになって凄い負担をかけてしまうのに、あまりにも優しくて帰りの電車で少し泣いてしまった。本当に、夫含めまわりの人たちには感謝しかない。

 8月末までの長い休みが始まった。きっと、あっという間に過ぎてしまうのだろうけれど。

 

 

 *

 6月30日。入院初日。

朝10時半までに受付をすればいいとのことだったが、夫の出勤ついでに車で送ってもらったため8時前に着いてしまい、受付が開くまで40分くらい待機。受付を済ませると看護師さんが迎えに来てくれて病室まで案内される。通された窓際のベッドからの景色は一面の海だった。普段は綺麗に富士山が見えるらしいが、あいにくの雨模様だ。

9時に処置室に呼ばれ、入院患者は必須とのことでまずPCR検査を受けた。(この結果は結局退院まで何も言われなかったが、まあつまり陰性だったということだろう)

 

午前中から子宮口を開く器具を挿入し、午後にまた器具の量を増やすらしい。私が仕事をしているのを気にしてか、早く処置を終えて退院したいよね?と聞かれたので、しばらくお休みをもらったので全然急いでないですよと答えると、それならゆっくり子宮口を開いたほうがより安全なので、前処置に2日かけて明後日分娩の予定でいきましょう、と提案された。そうなると、7月2日がこの子の誕生日になる。私が8月2日生まれだから、ちょうど1ヶ月違いだなぁなどと考える。

 予めネットで体験談をいくつか読んだのだが、とにかくこの前処置がめちゃくちゃ痛いと言っている人が多かった。診察台に上がって横たわりながら、すみません心の準備のために聞きたいんですけど、これ痛いですか?と言うと、我慢できない程じゃないですよ〜と返された。

 処置が始まってみると、なるほど確かに我慢できない程ではない……が、膣の入口から結構な勢いでギュウギュウ何かを入れられる感覚の後、内蔵を捻りあげられているような不愉快な痛みが続いた。後から調べたら子宮の入口を鉗子で掴んでいたようだ。そりゃ痛いって。

ダイラパンという、水分を吸って膨らむ棒が挿入される。これが膣の奥でどんどん膨らんで、ゆっくりと子宮口を拡げていくわけだ。最後に、生理食塩水でビショビショのガーゼが奥の方に入れられる。この水分をダイラパンが吸うらしい。15分くらいだろうか、かなり長い時間に感じられた処置が終わった。ガーゼの水分が少し出てくるとのことでおりものシートをセットし、病室へ戻る。鈍い生理痛のような痛みはあるが、この時はまだ余裕があり、呑気に昼寝をしたあと昼食をモリモリ食べた。ちなみに古い市民病院なので食事はイマイチで、この日の昼食は温度30℃くらいのちゃんぽん(麺はソフト麺だった。

 

 合間に看護師さんが来て「赤ちゃんにしてあげたい事のリスト」を持ってきてくれた。手型や足型を取る、母乳をあげる、写真を撮る、などなど。16週で死んでしまっているので小さいし、浮腫で皮膚も脆いためおそらく手型や足型は取れないだろうと予想できたが、できるようであればやれることはやりたいです、と希望する。

前の産院の先生から「全身が水膨れのような状態なので、産道を通るときに皮膚が剥けてしまい、綺麗な形では生まれないかもしれない」と聞いていたので、手型はおろかヒトの形を保って出てくるかも不安なんですけど、と伝えると、浮腫があってもそんなに酷い状態になることはほぼ無いから大丈夫だと思いますよ、と教えてくれて少し安心した。

 

 16:40、再び処置室へ。ダイラパンを追加。(多分午前中は2本だったのが5本に増えた)

午前中の処置と比べ物にならないくらいの激痛。処置中もめちゃくちゃ痛いし、入れたあとも生理痛が凄く重いときのような痛み。病室へ戻って、いってえええええ!とエビのように丸くなりながらも、テレビをつけて17時からのテレ東音楽祭を確認することは忘れなかった。トップバッターのHiHi Jetsが最高に可愛くて少し癒やされたがとにかく腹が痛いのでテレビを消してまたしばらく丸まる。

横になってひたすら耐えていたら徐々に痛みは落ち着いてきて、夕飯を完食し、テレ東音楽祭も後半はゆっくり見ることができた。NEWSの衣装が過去最高だった。

 

入院しても夜眠れないのは相変わらずなので、いつものように3時過ぎまで起きてYouTubeなど見ていたが、30分おきくらいの頻度で看護師さんが見回りに来て「まだ起きてる!」みたいな顔をして去っていくのでなんだか申し訳ない気持ちになった。すみません、これがデフォルトなんです……

 

 

 *

7月1日。朝食の後、8:40処置室へ。

遅くまで起きていたことがバレていて、明日は分娩で体力使いますから、今日はそれに備えてゆっくり寝てくださいね〜と笑われる。すみません。

今から昨日と同じようにダイラパンを追加して、午後にまた様子を見て処置をするとのこと。今日も前処置だけだから、昨日みたいにテレビでも見てのんびり過ごすか〜。ダイラパンを入れる処置は痛くて不快だけど、まあその後の痛みも我慢できないほどじゃないしね……なんて思っていたが、甘かった。

 

挿入時、昨日の午後を更に上回るほどの激痛。あまりに痛いので思わず「せっ、先生!いま何本入ってるんですか!?」と聞くと「10本です」との返事。

じゅっぽん!! 膣の奥に、水を吸って膨らむ棒が、10本も突っ込まれてるのか!

 

病室に戻るも、処置後に出てくる水分の量が昨日までと全然違う。おりものシートでは心もとなかったのでナプキンに替えて様子を見るが、血液混じりの水がどんどん出てきてすぐビショビショになってしまう。それから生理痛どころでない下腹部の痛み。これ、本当にガーゼの水分か……?と不安になったところで看護師さんが血圧を測りに来てくれたので、水がめっちゃ出てきますと報告する。

 

「あー、ダイラパン入れた刺激で破水したんですね」

 

破水て! そうかこれ破水か! 

えっ、破水して大丈夫なんですか? 陣痛来ちゃったりしないんですか?

 「午後にもう1度処置があるから、その時先生に見てもらいましょうね〜」

 とりあえずすぐ出てきちゃったりすることはないらしい。もう痛すぎるので寝てしまって午後の診察までやり過ごしたいのだが、寝不足にも関わらず痛すぎて全然眠れない。痛いよ〜痛いよ〜とさめざめしながら横たわっていたら、昼食前に先生が病室まで来てくれた。

 

「どんな感じですか?」

「水が出てくるのはおさまったんですが、重い生理痛のような痛みがずーーーっとあります」

「わかりました、午後に様子を見てダイラパンを抜こうと思ってましたが、抜いたらお産が進んじゃいそうなので明日の朝までそのままにして、明日の朝に抜いて陣痛促進剤を入れましょう。今日はもう処置はしないので、安静にしてゆっくりしていてください。痛み止めいりますか?」

「いります!!!!」

 食い気味で痛み止めを所望した。とにかく痛みを和らげないとこのままでは眠れない。

 しばらくしてロキソニンを持ってきてくれたので、昼食後に飲む。なかなか効かず、このまま痛いのか……? と不安になったが、14時過ぎから少し落ち着いてきて、小1時間ほどウトウトできた。

寝たことで少しスッキリしたのでその後はベッドの上でできるだけ動かず過ごす。下腹部を触るとかなり下の方、恥骨のあたりがカチカチに張っている。明日の朝外に出られるからね〜、と擦りながら話しかけ、5時間おきにロキソニンを追加しつつ深夜2時頃また眠った。明日は午前中からいよいよ出産だ。陣痛ってどのくらい痛いのかな……

 

 

 *

 下半身が冷たくて目が覚めた。時計を見ると朝の5時である。

布団をめくって思わず、えっ、という声が出た。

下着からパジャマから全てが水分でビショビショになっており、布団にも水のシミができている。
どうやらおさまったと思っていた破水がまだ終わりきっていなかったらしく、寝ている間に漏れてしまったようだ。自分の子宮内にこれほど大量の水分が入っていたことに感心しつつ、とりあえずトイレへ行き下着とナプキンを交換してから、ナースコールで看護師さんを呼んだ。新しいパジャマを貰い着替えると、シーツを交換するから待合室で待っていてくださいと指示され、病室の外の談話室のようなところで座って待機した。朝から看護師さんに働かせちゃって申し訳ないな……などと考えていると、急に激痛が尻のあたりを襲った
 肛門に硬いボールを入れられて思いっきり圧迫されたような、ギューーーーッとした痛みで息もできない。なんだなんだ? と慌てていたら次第に波が引き、少し楽になる。入院してから便が出ていないのでその痛みかな……と思っていたら、また差し込むような、尾てい骨がバリバリと裂けそうな痛みがギューッと襲ってくる。
何度か繰り返し、これもしかして陣痛じゃないか? と気付いた。
 
メモ代わりに使っている自分宛のLINE画面を開き、痛みがきた時間をメモしていく。大体3分置きくらいに痛みがきている。確か陣痛ってもっと長い間隔から始まるんじゃなかったか? さっきまで寝ていて、いきなり3分間隔なんですけど!?
 
 脂汗を流していたら、シーツ交換を終えた看護師さんが来てくれた。なんとか病室に戻ると、もう少しゆっくり寝ててくださいね〜、と言われたので、待っている間に傷みが来て、等間隔なのでもしかして陣痛かもしれないと伝える。
あらあら、ちょっと確認してきますね。と看護師さんがナースステーションへと戻っていく。その間にも痛みは規則正しく訪れ、横になることもできずベッドに腰掛けたまま深呼吸していた。水分なのか血液なのか、凄い勢いで何かが膣から流れている感覚がある。さっきナプキンを替えたばかりだけどこのままではまたパジャマまで汚れてしまうかもしれない、トイレに行かなきゃ……と思った瞬間、激痛と共になにか塊が膣の奥から落ちてくるのがわかった。おそらくダイラパンと一緒に詰めてあったガーゼだ。たまらずナースコールを押す。
 

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すみません、多分ガーゼだと思うんですけど、入れてたものが落ちてきた感覚があります。と伝えると、慌てて車椅子を持ってきてくれてそのまま分娩室へと運ばれた。朝早くにすみません、としきりに謝ってしまうが「全然いいですから! 早めに教えてくれてありがとうございます」と優しく言われた。
 
 分娩台に上がってしばらく痛みに耐えていたら、主治医の先生とは違う医師がやってきた。当直の先生だろう。急すぎて私の情報が伝わりきっていないようで、看護師さんもバタバタと支度をしていたので、もう自分で言ったほうが早いなと思い「昨日の午前中にダイラパンを10本入れてまだ入っている状態です、さっきガーゼと思われる何かが落ちてきたところです」と説明する。
すぐに先生が下半身をのぞいて、あ、ガーゼですねと教えてくれた。それじゃあ今からダイラパンを抜いていきますね、ちょっと気持ち悪いけどごめんなさいね。と声をかけてくれて、体の中から1本、また1本と棒状のものが引き抜かれている感触が続いた。 
 
どんどん棒が抜かれていくと、あの差し込むような激痛はスーッと引いていった。棒が全て抜かれ、先生は何やらカチャカチャと処置をしている。あれ、痛み収まっちゃったな。予定ではこのあと陣痛促進剤を投与するはずだから、これからまたあの痛みがくるんだなぁ、便が出ていないままなんだけど、この先分娩が始まってイキんだら便が出ちゃわないか心配だな……などと考えながら「痛みが引きました〜」と申告すると、先生が驚きの言葉を発した。
 
「さっき赤ちゃんもう出ましたからね〜」
 
ええええ!? 
 
「えっ!?もう生まれたんですか!?」
「はい、今看護師さんが綺麗にしてくれてるから、会えるまでもうちょっと待ってくださいね」
 
衝撃である。薬も使っていなければイキんでもいない。陣痛らしき陣痛はほんの20分ほどで、ツルンと生まれてしまった。
ふと壁のホワイトボードに目をやると、看護師さんが書いたであろう走り書きがあった。
 
 「5:57 児」
 
 ああ、5時57分に生まれたんだ。5:00に目が覚めて、痛み始めたのが5:10くらいだったから、本当にあっという間のことだった。夜型の私の子にしちゃ早起きだな、夫の遺伝だな。なんて思った。
 
 
 
 *
 処置が終わり、残留物が無いかどうかエコーで確認される。
綺麗になってますね、と見せられたエコーにはもう何も映っていなくて、私のお腹がからっぽになってしまったことを実感してしまう。
 
 産後は出血が続くので、分娩台に寝かされたまま2時間安静にするように言われた。私以外無人の静かな分娩室で、腕に繋がれたままの血圧計が定期的に動いて、血圧を測ってくる音だけが響く。
 
しばらくして看護師さんが戻ってきて、赤ちゃんに会いますか、と聞かれた。
会いたいです、と答えると、ちゃんと新生児が乗せられるのと同じカートのようなものに布団を敷いて寝かせてもらった我が子がやってきた。
 
12cm、53gの、赤くて小さなかたまりだった。
ゼリーとかスライムみたいにプルプルで、口の中の粘膜のような質感。だけど、ちゃんと目と鼻と口があって、スラッとした腕と脚が伸びていて、足の指なんかもよく見ると5本あった。鼻がしっかり高くて凄くスマートな顔をしている。今にも溶けてしまいそうでフニャンフニャンに柔らかいけれど、赤ちゃんのミニチュアみたいだった。
凄く凄くかわいい、と思った。
 
 やっぱり体中が水で浮腫んでいて、特に首のあたりはマフラーを巻いているみたいに膨れている。お腹も腹水でポンポンになっていて、さぞ苦しかったことだろう。辛かったのによく頑張って生きてくれたね、ありがとうねと声をかけた。
 「性別ってわかりますか?」
「それが小さくてわからなかったから、書類上は不明ってなってるんだけど……ちょっともう1回見てみましょうか」 
 看護師さんが、ちょっとごめんね〜と赤ちゃんに謝りながら、綿棒ほどの細さの小さな脚をかき分ける。
「あっ、何かついてるみたいに見えますね、男の子かもしれないね」
見てみると、確かに股の間に小さなポチッとしたものがついていた。そっか、男の子だったのかな。夫は男の子だったらキャンプ行きたいって言ってたなぁ。
 羊膜に包まれたまま綺麗に出てきてくれましたね。へその緒と胎盤もくっついたまま一気に出てきてくれたんですよ。胎盤が体に残ってなかなか出てこないこともありますから、よかったですねと看護師さんに言われる。
 
 「5時まで呑気に寝てて、破水で目が覚めて、ちょっと痛い!って思ったらもう生まれちゃいました。促進剤も使ってないのに」と笑うと、
「お母さんが苦しい思いをしないように、できるだけ休ませてくれたんですね」と言ってくれた。
 
 本当にそうだ。
子供ができなくなるリミットに怯えていたら宿ってくれて、夫にエコーを見てもらうまで頑張って生きてくれて、中絶を躊躇う私を気遣うように心拍が停止して、強い薬を使う間もなく生まれてきてくれた。なんというか、空気を読みすぎるというか、優しすぎる。
なんていい子だったんだろう。でもそんなにいい子じゃなくてもよかったんだよ。そんなにいい子じゃなくても、健康で、生まれてきてくれるのが一番だったのにね。
悲しみよりも、ただただありがとうという気持ちが強くて涙も出なかった。生きて生まれることはできない命だったけど、この子がその命全体で放った優しさが膨大すぎて、なんだか神さまを拝むみたいな気持ちに包まれていた。
 
 
 *
 生んでからは行政的な手続きに追われる。12週を越えて死亡した胎児は、役所に死産届を出し、埋葬許可証を貰い、火葬しなければならない。
ありがたいことに夫が早めに仕事を切り上げて病院へ来てくれて、その日のうちに市役所に届け出をし火葬場の予約まで済ませてくれた。
 この病院もコロナで面会は禁止なのだが、死産だから特別に配慮してくれて個室へ移動となり、夫も子供に面会することが許された。
 
私は凄くかわいいと思ったけど、あまりにも小さくて遠目からだと内臓のかたまりのようにしか見えないので、夫はショックを受けるかなぁ、と少し心配になる。衝撃を和らげようと思ってあらかじめ「プニプニの粘膜だから内臓みたいだよ」と伝えていたのだが、夫は子供を見るなり「わ〜〜ちっちぇ〜〜」と目を細めて笑った。俺に似て鼻がしっかりしてるな、なんて言いながら写真を撮る夫を見て、なんだか無性にうれしかった。
 
 7月3日土曜日、退院の朝。主治医の先生が朝イチで診察をしてくれて、このまま退院で問題ないでしょうとのこと。夫が迎えに来てくれるのが12時頃なので、それまで病室でテレビを見たり(土曜はナニするの伊沢くんもしっかり見た)、うたた寝したりでのんびり過ごす。
この日も天気は土砂降りだった。せっかく海と空が見える病院なのに、まだ1度も晴れた空を見ていない。火葬は翌朝の予定だったが、天気予報ではやはり雨とのことだった。
 
 夫が迎えに来たので、看護師さんと一緒に我が子を棺に入れる。病院で用意してもらった棺は立派な木の箱で、可愛らしい小さな枕と布団も入っていた。そこに寝かせて布団をかけてあげると、お人形のようで凄く可愛くなった。
大量の保冷剤を入れたクーラーボックスに棺を収め、お世話になった看護師さんたちにお礼を伝える。医師も看護師も、本当に全員優しく、子供を亡くした私に寄り添ってくれた。
遺体を運んでいるからだろう。わざわざ警備員をエレベーターに配備してくれて、他の人が乗ってこられないよう貸し切りにするという配慮もされていて感動した。
 
 火葬は翌朝。今日は家族3人で過ごす最初で最後の日になる。棺にお花を入れてあげよう、ということで、花屋さんの入っている大型ショッピングモールまで車を走らせた。さっきまで土砂降りだった雨はやんでいた。
 
「名前なんだけどさ」
 
入院前、戸籍には残らないけど名前をつけてあげようね、と夫とは話していた。男女どちらでもいける名前をいくつか考えたものの決めかねて、生まれたら性別がわかるかもしれないからその時考えよう、ということになっていた。
 
 「病室の窓からずっと土砂降りの空を見ててさ。明日も雨だっていうし、この子に晴れた空を見せてあげたかったなぁって思って。せめて天国で晴れた空にいけるように、『晴』で『はる』か、『空』で『そら』か、どっちかがいいかな、って思ったんだけど、どう? 男女どちらでもいいし、胎児だからひらがなっぽい名前の方がいいかなって」
 夫に提案してみると、
「いいんじゃない? そしたら『晴』も『空』も両方使って、『晴空』で『はる』にしたら?」と返ってきた。
 「それだとちょっとキラキラネームじゃない?」
「まあ、俺たちの中だけの呼び名なんだからいいんじゃね?」
「確かにそうだね。あ、じゃあ、どうやら男の子っぽいから、晴空で『はるく』はどう?」 
「おお、いいじゃん、そうしよう」
 
 はるく、はるく。うん、呼びやすいしかわいいね。ちょっと画数でも調べてみようかな〜、と、いつか使うつもりでスマホに入れていた赤ちゃんの名付けアプリ(世の中には何でもアプリがあるものだ)で、私たちの名字とくっつけて姓名判断をしてみる。すると、驚愕の結果が出た。
 

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「な、なんか、めちゃくちゃ画数が良くて、何やっても成功する完璧人生、みたいなことが書かれてる……」
「スゲーじゃん、よかったなあ晴空、いい名前だってよ〜」
夫がニコニコしながらクーラーボックスの中の子に話しかけた。
すると、さっきまでどんよりとしていた雲の隙間から、太陽の光が何本か現れ、晴れ間が見えた。
「あれっ、晴れた! 凄いね、さすが私たちの子だね」
夫婦揃って晴れ男・晴れ女を自称しているのでついそんな言葉が口をつく。
ここまでずっといい子で徳を積んでたから、やっと外に出られたタイミングで晴れたんだね〜。すごいね、日頃の行いってやつだよ、とふたりで喜んだ。
 
 
我々の英才教育により、成長したら絶対浦和レッズのサポーターになることは確実だったので、棺に入れる花は赤と白(レッズのチームカラー)にしようということで夫との意見が一致した。
花屋に到着し、白と赤の花を見繕っていると、ふとひまわりの花が目に入る。ひまわりもいいな、夏生まれだし、晴れた空に似合うし……と思っていたら夫が「黄色入っちゃうけど、明るくなるからひまわりも入れよう」と言い出した。こういう気持ちの一致がしみじみと嬉しい。
 
 花屋さんを出ると、少し離れたところにケーキ屋があるのを見つけ、ケーキも買おう、と夫が言う。 
 「晴空の誕生日だからお祝いしなきゃな」
 そう言ってスタスタとケーキ屋に入っていく夫の横顔を見て、この人のこういうところが本当に好きだなぁと思った。同時に、この人が父親として生きていく姿を見てみたかったな……と考えてしまったけれど。
 
 0歳だから、と、0の形のロウソクも一緒に買うと、店員さんが「プレートも付けましょうか?」と聞いてきた。せっかくなのでお願いする。
 しばらくして店員さんが完成品を持ってきた。「晴空ちゃん おたんじょうびおめでとう」と書かれたプレートは思ったよりずっとかわいい仕上がりで、太陽のイラストまで添えてある。わーかわいい!書いてもらってよかった! と思わず言うと、店員さんが「すごくかわいい名前ですね」と言ってくれた。夫と顔を見合わせて、ありがとうございます! と答えた。晴空が褒められたみたいで、めちゃくちゃにうれしかった。
 
 
 *
 棺に花を敷き詰めるとますます可愛らしくなった。入りきらなかった花を飾り、ケーキを出し、家族3人の時間を過ごす。ちょうどレッズの試合があったので「英才教育だ」と言って晴空の棺をテレビに向けて、一緒に試合を見た。ついでに「ジャニーズも英才教育しとこう」と言ってFNS歌謡祭のNEWSも見せた。
 

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ケーキを食べ終わると、夫が「飲めそうなら一緒に飲もう、弔いのお酒だ」と言って棚の奥から古いウイスキーを出してきた。それは存在を忘れかけていた、ある約束のウイスキーだった。
 
 結婚した8年前。結婚祝いに夫が大事にしていたウイスキーを開けて、ふたりで飲んだ。コレクションしていた数本のうちの1本だったのだが、その時、残りのコレクションも何かめでたいことがあった時に開封しよう、ということになって、サインペンでそれぞれの箱に目標を書いたのだった。
資格試験合格、昇進など、目下のところの目標を夫がどんどん書いていく。ところが、最後の1本で書くことがなくなってしまった。
夫はしばらく悩んで、箱に「父」「母」と書いた。もし俺たちが親になることがあったら開けよう、と。
 最初に書いた通り、我々は子供を持つ予定が無かったので、これ一生飲めないんじゃない? なんてその時は突っ込んでいたのだが―――。
 
 夫は着実に目標を達成していき、その度にウイスキーを開けてきた。8年の間に、いつの間にかほとんど全てを飲み干していた。「父」「母」と書かれたこの1本だけを残して。
 すごいな、これで全部夢が叶ったんだなあ、と夫が呟いた。
一生このウイスキー開封することないと思ってたのに、開けられたね。晴空のおかげだね。と笑った。
 

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ウイスキーをちびりちびりと飲みながら、晴空を挟んで、深夜までたくさん話をした。今までのことと、これからのことと。何度もふたりで棺をのぞきこんで、かわいいねえ、本当にかわいいねえと言い合った。
あんなに毎日酒ばかり飲んでいたのに、妊娠して数ヶ月お酒を飲まないでいるうちに、私はすっかり飲めなくなっていた。
 
ベッドサイドに棺を置いて、その夜は3人で寝た。
 
 
 *
 7月4日日曜日。
胎児の遺体は小さいため、普通の火力で火葬すると骨が残らない。そのため、炉が冷えた状態の朝1番に行き、低い火力で火葬してもらうことが多い。(それでも骨が残るかは焼いてみないとわからない)
 朝8時半、まだ誰もいない火葬場へ行くと、ちゃんと「○○家」と私たちの名前が表示されていた。職員の方が丁寧に案内をしてくれる。普通のお葬式の時と同じように、お焼香をし、手を合わせ、お見送りをする。胎児もちゃんと人間として扱ってくれることになんだか感動してしまった。
30分程で準備が整ったと呼び出しがかかった。あまりにもフニャフニャで柔らかかったから、きっと骨は残らないよねえ、と夫と話していたのだが、大腿骨と思われる骨がしっかり残っていた。爪楊枝程の細さだが、確かに骨の形をしている。全部集めても指先でつまめる程度の僅かな骨を、斎場で用意してくれた一番小さな骨壷に納める。
母が死んだとき、骨壷を持った叔父が「こんなに軽くなっちゃって……」と言っていたが、53gだった晴空は骨壷の重さでむしろ重くなったので、不思議な気持ちになった。
 
これで全てが終わった。妊娠以来張り詰めていた気持ちが、急にほどけていくのを感じた。
 
 
 
 *
 これが、この1週間の出来事。長い長い記録になった。
 
 私は妊娠するまで、自分の人生はもう余生のようなものだと思っていた。
父は45歳、母は70歳で死んでいるので私もまあそんなに長生きはしないだろう。80歳まで生きるとしてももう折り返している。
この年になると自分の能力の限界も大体わかっているし、特に心が惑うこともなくなってくる。これから先、人生にイベントが起こるとしたら、まあ何かのきっかけで夫と離婚するとかそのくらいのもので、それでも自分がそれなりに楽しく生きていけるのはわかっていた。夫や友人や趣味に囲まれて、穏やかにのんびり生きていく。そういう予定だった。
 だけど妊娠して、私の世界はガラッと変わった。ただ今までと同じ日常を寿命まで繰り返すだけだと思っていたのに、子供を生み育てるとなるとイベントだらけだ。育児、子供の就学、子供の受験、独立、もしかしたら結婚や出産も。余生とか言っている場合じゃない、早死にしてる場合じゃない。
一度「親モード」のスイッチが入ってしまったから。もうその未来は来ないとわかっているのに、なかなかスイッチが切れないでいる。
 
本当に幸せだったのだ。
流産しないか毎日不安で仕方なかったし、つわりで体調も最悪だったし、大好きな刺身も生ハムも食べられなくて行動も制限されて大変だったけれど、間違いなく、妊娠してからのこの数ヶ月が、今までの人生40年間で一番幸せだったのだ。
毎日お腹に手を当てて話しかけた。お腹が膨らんで着られる服がなくなっていくのがうれしかった。お腹の中の存在そのものが、わけのわからないほどの幸福感を私に与えてくれていた。
 15年一緒にいる夫のことも、もともと大好きだったけれど、この数ヶ月の夫が圧倒的に一番好きだと思った。この先どんなに夫との間に亀裂が入ることがあったとしても、妊娠してから今日までの夫の言葉や行動への感謝は絶対忘れられないから、夫のことを嫌いになることは一生ないだろうと思える。そのくらい、妊婦の夫として、そして父親としての姿勢は、私にとって精神的支柱であり尊敬の対象だった。
 だからこそ、火葬を終えて我が子が小さな骨壷に納まってしまっても、スイッチを切ることができない。一度描いてしまった、夫と子供、家族3人での新しい人生の想像図が、頭の中から消えてくれない。何をしていても、何を見ても、これを子供にも見せてあげたかったなと思う。スーパーへ買い物へ行くと、乳児を連れた夫婦ばかりが目に入ってしまう。今はまだ日も浅いから仕方ない、時間が解決すると自分に言い聞かせて、できるだけ考えないように努力をするけれど。
 
 私は来月41歳になる。普通に考えたら、また妊娠する確率はかなり低い。万が一奇跡的に妊娠したとしても、年齢を重ねているぶん染色体異常などのリスクは今回の妊娠よりも更に増すわけで、今回と同じように生まれてこられない可能性もおおいにある。だから一度思い描いてしまった「子供のいる生活」は、よっぽどの奇跡がないかぎり来ないと理解している。
大丈夫、もともと予定していた人生に戻るだけだ。趣味をたくさん追いかけて、最低限のお金を稼いで、美味しいものを食べて、穏やかに余生を楽しむ。私はその幸せをよく知っている。いつかスイッチが切り替わるから、今はただ時間の経過に身をゆだねるしかないのだ。
 
 
 *
 あれから1週間。今は7月10日の午後。
全国的に災害をもたらすほど降り続いていた雨があがり、今日は眩しい晴天が広がっている。何日ぶりの晴れだろうか? 少なくとも私が入院した6月30日からはずっと雨か曇りだったから、青空を見たのは退院の日に一瞬雲の切れ間ができた時以来かもしれない。
 晴空と名付けた子に、心で語りかける。はるく、今日はあなたの名前と同じ空だよ。やっぱり晴れた青空は最高だね。
 
 綺麗な空を見ていたらふと思い出した。そういえば何年か前に、占いのできる方にこの先10年についてざっくり占ってもらったことがあった。ちょうどその頃、冒頭にも記した「避妊をやめた」時期だったので、諸々不安になって自分がいつか妊娠することがあるか聞いていたのだ。
過去のメッセージのやりとりを見てみると、私の相談内容と占い結果が残っていた。
 
 

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 占い通り2021年に妊娠したことにまず驚いたが、なにより、私が子供を持つことに消極的だったことがはっきり表れていて感慨深い気持ちになった。
 
 38歳の私よ、あなたは占い通り2021年に妊娠するよ。
だけど安心して欲しい。それはそれはもう、信じられないくらい、愛せるから。
 
 私は人よりも「愛」の感情が強いとよく評されるし、自分でもその自覚はある。実際人生で出会ったあらゆるものを愛してきた。それなのになぜか、子供についてだけは苦手意識ばかりが先行し、避けて避けて生きてきた。
だけど、妊娠をした瞬間から、今まで自覚していた「愛情」というものを大きく超える感情が爆発的に発生した。たった17週と6日で天にかえってしまった我が子が、40年生きてても知らなかった感情を私に与えてくれた。
 
 物凄く大きな愛を知った。本当に幸せだった。
「晴空はこの気持ちを教えにきてくれたんだ」と夫が言う。
「幸せだった、それだけでいいんだと思うよ」と。
 
 ほんの短い期間だったけれど、私は確かに「母親」だった。これから先、また今まで通りの生活に戻るけれど、母親となって得ることができた景色はもう不可逆で、これからの生活は元と同じようでも、同じではないのだ。
 
空に向かって手を伸ばす。この愛を、幸せを、この景色を私に残してくれた子供への感謝の気持ちがとめどなくあふれてくる。この世界を知ることができて、本当にうれしい、ありがとう。ありがとう。
 
 
 晴れの空を見上げて、私はこれからも生きていく。
この愛と幸せに抱かれながら生きていく。

 

世界はむなしく、しかしやさしい

気が付けば約1年ブログを書いていなかった。

私が長い文章を書くときは、何か熱量が爆発していてよほど伝えたいことがあるか、不安定になったり惑う出来事があって気持ちを整理したい時なので、つまりこの1年は精神が安定していたということなのだろう。

こう書くと、嘘でしょ、と総ツッコミを受けるかもしれない。2020年度のNEWS担の精神が安定していたわけがない。

 

実際、あの6月にーーNEWSが突然4人から3人になった頃にーー2回だけ少し長い文章を書いた。さすがに何も触れないではいられず、しかしブログにできるほど感情の整理がついていなかったので、ふせったーのフォロワー限定公開という形で投稿した。

まとまった文章にできるくらい消化できる日がきたらブログにしよう、と当時は思っていたが、日々が過ぎていくうちに、あえて書き記すことではないなと思えてきて今に至る。今はもうだいぶ明確に自分の思いを形にできるのだけれど、おそらくこの先も特に言及することはないだろう。

私のカバーし得る範囲の世界線でもし交わることがあれば姿を見ることもあるかもしれないし、それで何か感じたことがあれば書くこともあるかもしれない。消化した今言えることはそのくらいだ。

 

さて、一方で。あの混乱の最中にあっても、私がNEWSを思う精神はかなり安定していたのも確かなのである。

なぜならNEWSの3人の姿と、それを取り巻く人々が、めちゃくちゃに信頼できて安心できるものだったから。

私たちを前へ前へと連れて行ってくれたから。

 

人数が減ったときすぐさま「3人で続けていく」と発表があった。表情は固く辛そうではあったけれど、不思議と心配や不安な気持ちは起こらなかったのを覚えている。

疫病が蔓延するこの世の中で様々な制限が課せられているにも関わらず、NEWSはその日から休む間もなく新しい姿を発信し続けてくれた。その姿を追いかけるだけで忙しく、なにより発信されるものがあまりにも心のこもった素晴らしいものばかりだったから、少なくとも私は寂しい思いをしたり惑ったりしている暇すらなかったように思う。

迷子になってベソをかいていたところにNEWSが現れて、大丈夫こっちだよ、一緒に行こう!って手を引っ張られてぐんぐん走っているうちに、気付いたらすごく明るくて温かい場所に出ていた、そんな半年間だった。

 

後ろを振り向く暇もなく走ってこられたのは、NEWSの3人が強い決意と誠実な心を持って私たちと向き合ってくれたからに他ならない。それと同時に、ただ走るだけではなく安心して、幸せな気持ちで走ることができた大きな要因は「NEWSってものすごく愛されているんだな」ということがはっきりとわかったからだ。

 

どれだけ本人たちやファンが活動を続けたいと願っても、場が与えられなければ前へ進むことはなかなか難しい。ところがNEWSの周りの人たちは、次々と3人に仕事を持ってきた。オンラインファンミーティング、音楽番組の出演、新曲の作成、Blu-ray発売、数々の雑誌掲載、エトセトラ、エトセトラ。

NEWS本人たちや私たちが強く思っていたのと同じくらい、NEWSを取り巻くスタッフ、今まで関わってきた仕事関係者の方々が「絶対にNEWSを諦めない」とがむしゃらに動いているように私には見えた。

2年前、LVEを初めて聴いたときも同じような気持ちになったことを思い出す。あの時私は、NEWSというプロジェクトに関わっている人々の反骨心とNEWSへの絶大な愛を感じて震えた。なんの証明もできない、ただの私の主観でしかないけれど、少なくとも私はそう受け止めた。今回もあの時と変わらず、強い意志と、泥をかき分けるようなパワー、そして穏やかに包み込むやさしさを感じるばかりだった。

 

NEWSは愛されている。今まで一緒に仕事をしてきた、NEWSを近くでよく見てきた方々に、これからもNEWSと仕事をしたいと思ってもらえて、そのために力を尽くしてもらえている。

そのことが明確に伝わってきたから、この半年間、不安だったり心をかき乱されることなく、ただただ新生NEWSが見せてくれるものを幸せに受け取ってこられたのだ。

 

 

*

先日、小山さんと加藤さんが、新型コロナウィルスに感染した。新曲のプロモーション、加藤さんの小説の新刊発売などのタイミングで、今年1年の中でもひときわ忙しくしていたところだった。第3波と言われる感染者増の状況で、もはや誰もがいつ感染してもおかしくない中、多忙なふたりがどれだけ毎日気を配っていたか察するに余りある。それでも感染してしまう。いま我々が直面しているのはそういう世界だ。

 

Twitterでその報を見かけた瞬間にヒュッと呼吸が浅くなり、タイムラインをスクロールする指先が冷たく震えた。動揺していたのだろう。ここで普段ならやらないことをしてしまった。

個人名だったか、「コヤシゲ」だったか。もう覚えていないけれど、トレンドに名前が入っていたのを、情報を得ようとして思わずクリックしてしまったのだ。

パッ、といちばん上に出てきたのは、かつて何度か見かけたことのある有名なアカウントだった。芸能ネタをメインに、悪意をもって揶揄するツイートを巻き散らかしているもの。さすがというかなんというか、例にもれず、この件についても悪意100%で茶化すようなコメントをしていた。

あちゃ〜〜〜失敗した、と頭を抱えた。久々に悪意に触れてしまった。ブロックしていなかった自分を呪った。

 

そうだった、思い出した。世界にはこういう側面があるのだ。

「NEWSって愛されてるなあ」と幸せな気持ちでいたこの半年間も、その前も、もうずっと長いこと悪意が渦巻く場所が存在していることは、もちろんよくわかっていた。だけどそんな存在よりずっと確かでデカくて暖かい愛の場所を知っていたから気にしてなかった。なのでけっこう本気で忘れかけていた。

 

いや、忘れていた、というのは語弊がある。正直に言えば「Twitterのタイムラインで度々、悪意が存在することを思い出していたが、自ら踏んでしまったのは久々だった」というのが正確なところである。

今回も私は、うっかり検索で現れてしまったその1ツイートしか悪意に触れていない。検索は二度としないし、ヤフコメも見ないし、フォロワーさんはNEWS担か否かに関わらずあたたかい人たちしかいないので、皆ふたりを心配し回復を祈ってくれていた。だけど同時にNEWS担のフォロワーさんたちがちらほらと怒り嘆き悲しむ様子も流れてきた。それを見て私は、ああ、またどこかで誰かが悪意を振り撒いていたのだろうな、それを見て優しい人たちが傷付いているのだな、と察する。悪意の存在をそうして思い出してしまう。

 

*

私たちは知っている。私たちの大切な人たちが、どれだけ酷いことを言われてきたかを。何をしても、何を言っても、一部の人たちの目を通したら全てバカにされ、中傷され、人格を否定される言葉を投げつけられ、その言葉はインターネットの海に漂い続ける。

私たちは知っているので、そのうち、漂うその言葉たちを直接見なくても想像してしまえるようになる。好きな人が何かを発言したとき、本当は楽しいトークのはずなのに、「あの悪意の人たちはこれをこう解釈してこう攻撃してくるに違いない」と先回りで想像して苦しんでしまう。悲しいことにその想像はだいたい合っていたりするので、「やっぱりまた悪意に攻撃されてしまった!」と絶望してしまう。

 

だけどその不安は、悲しみは、口に出してしまうと、はからずも「悪意」の存在を強調してしまうような気がしてならない。きっとまたあること無いこと言われてるんだ!と嘆くことで、そっか、あること無いこと言われてるんだこの人達は。と教えてしまう。そうして興味本位で悪意の存在にたどり着いた善意の人が、悪意に感化されてしまうことも、なくはないのだ。

私はずっとその、負の感情の循環のようなものが苦手だった。悪意の存在に嘆き憤るムーブが定期的に訪れるのが寂しかった。だって、本人たちはあんなに楽しそうにしていて、幸せを与えようとしてくれているのに。外野のことで負の感情にとらわれるのは寂しすぎる。

 

では黙って無視して泣き寝入りしろということか、 そんなことしているうちに悪意が届き続けて彼らを傷付けてもいいのか。と言われるかもしれないがそんなわけはない。度の過ぎた誹謗中傷があった時にはしかるべき場でしかるべき制裁が加わるよう声をあげるつもりだ。だけど結局それまでにできることは、粛々と通報を続けることくらいしかないのかと思う。とはいえ悪意撒き散らしアカウントには万単位のフォロワーがいるものも少なくないので、実際は通報したところで特にダメージを与えることはできない、という現実もある。我々は無力だなぁと落ち込んだりもする。

 

*

ただ、同時に「こんな悪意なんて、取るに足らない存在なのでは?」と思う気持ちも湧き上がってくるのだ。

前半、NEWSは本当に周囲から愛されている、ということを書いてきたが、小山さんと加藤さんが新型コロナウィルスに罹患したことで、よりその愛が明確に見えるようになった。

 

FNS歌謡祭ではNEWSがトリの予定だったという。その時点で既にNEWSへの愛が溢れすぎているが、出られなくなったNEWSの代わりにジャニーズの皆でNEWSの曲を歌ってくれた。ただ出演をとりやめる、なかったことにするのではなく、番組全体でNEWSへメッセージを送ってくれた。

増田さんの番組、シゲちゃんの本の出版社、小山さんを取材した雑誌、3人と関わってきたスタッフさん、作家さん、タレントさん、俳優さん、ものすごくたくさんの人が、ものすごくやさしい言葉を、エールをNEWSに送ってくれた。

 

NEWSのことを直接知っている、実際に一緒に仕事をしてきている人達がこんなにも3人を愛してくれている。どこの誰だか素性がわからない人がインターネットで彼らを貶す言葉よりも、確かな存在の方々の確かな言葉のほうが、ずっとずっと重要なのではないか。親しい人たちと、そして私たちからの愛が確かなものであることはきっと本人たちにも届いているはずで、もしかしたらそれだけでいいのではないだろうか。遠くの悪意の存在が彼らに悪影響なのではと考えてしまうことは、杞憂なのかもしれない、とすら思った。そのくらい大量の愛と気遣いを、私はこの2週間見た気がする。

彼らはやさしく、そしてそんな彼らの周りにはやさしい人たちであふれている。そして我々もその「やさしい人たち」の一員なのだ。

 

 

*

好き勝手に悪意を振りまくような人々には、その因果が巡ってほしいと思ってしまう。ネットで誹謗中傷するような人なんて、きっと友達がいなくて寂しい奴らだよ、と思いたくもなる。

だけど世界は案外そうでもなくて、そういう人も実際に周囲の人からは愛されていたりするものだ。NEWSが周りから愛されているのと同じように。

普通に友達がいて、普通に良い人で、まさかインターネットで人の悪口ばかり書いてるなんて誰も思わなかったりするのだ。もしかしたら私が大好きで慕っている友人がそういうことをしているかもしれない。

私は人を傷付けたくないと思って生きてはきたが、とても褒められるような人生ではないし、意識的でも無意識でも、誰かに対して不誠実なことや酷いことをしてしまったことはたくさんある。たくさんのやさしい人に囲まれ愛してもらっている自覚がある一方で、私のことをとても嫌いという人も少なからずいるだろう。こんな一般人の弱小アカウントですら、ごくごく稀に悪意に満ちたマシュマロが届いたりするのだから、私の数億倍たくさんの人に愛されているNEWSは、どうしても悪意の存在も多くなってしまうのだろう。そんな質量保存の法則みたいなものいらないよ、と嫌になってしまうけど、この世界というのは、おそらくそういうふうにできている。

 

世の中はかくもむなしい。人間全員が善人で愛しか持たず平和に生きていっているわけではない。誰にでも、私にも、NEWSの中にも、善だけではない何かが存在し、それが何らかの形で発露してしまって誹謗中傷アカウントのような振る舞いをする可能性だってある。自分の親しいなにかに不祥事があった時「そんなことをする人だとは思わなかった」「見る目がなかった」と嘆く言葉がでてしまいがちだが、誰だって「そんなことをする」可能性があるのだ。

だけど同時に、そうやって人を信じることは、人間のもつ「善」のひとつだとも思う。信じることはやさしさだ。

 

 

NEWSはやさしい。それはNEWSが、自分たちを、自分たちの愛するものを信じているからだ。そんなNEWSを取り巻く人々は、NEWSのことを信じているから、やっぱりやさしい。そういう人たちを見ている私たちも、やさしくなれる。

そのようにお互いのやさしさが干渉しあうことで、善だとか、愛だとか、そういうエネルギーの方が自分の中で大きくなって、心の中の「悪」の存在が薄くなっていく。やさしさが増えていく。

 

 

こやまさんとシゲちゃんが回復した、というニュースを聞いて、泣いてしまった。

ふたりの熱が上がったと聞いたときには自分の身がズタズタになるくらい辛かった。子供のいない私は母性と言うものを知らないが、きっとこれはそういう気持ちに近いのかもしれない、と思った。掛け値なしに、自分の存在以上に、心から愛しく愛しく思う人たち。私がNEWSを思う気持ちって本当にやさしいな。私はこのやさしさを知ってる私のことが好きだな、とうれしくなった。

 

このむなしい世の中で、こんなにもやさしくなれる方法を教えてくれたやさしいNEWSに出会えたことがうれしい。

 

こやまさん、シゲちゃん、おかえりなさい。

増田さん、私たちに寄り添ってくれてありがとう。

 

 

これからもNEWSと共に、やさしい気持ちで。

オッケーよなんて強がりばかりを僕も言いながら

2019年が今日で終わる。

今年は恋愛感情にふりまわされた1年だった。夫と出会って13年。結婚して6年。相変わらず仲良く暮らしているので、まさか自分がこの年になって恋とか愛だのいう感情を抱えることになるとは夢にも思わなかった。それも、話すことも触れることも出来ない相手に対して。

 

ガチ恋なんて人に話せるような感情ではなく、ただ暗く卑屈なものでしかないので、私は好きな人について公に書くことは1年間避けてきた。今後もこのスタンスは変わらない。

だけど今はなんとなく、今年1年自分の心を騒がせた感情について、今年のうちに書いておきたいな、という気分だ。あくまで自分の心を整理するため、そして「M-1敗者復活戦」という素晴らしい現場に参加できたことを忘れないため、少しだけ記しておくことにする。

 

2019年12月22日。私はM-1の敗者復活戦の会場にいた。

 

前置きとなる経緯とその時の心境については、前夜にふせったーにて記したのでそちらを貼っておく。

 

六本木ヒルズアリーナに到着すると既に開場を待つ観客でごった返していた。私のチケットの整理番号は300番代。列整理の様子を見ると800番くらいまであるようだ。今年の敗者復活戦は決勝進出経験者も複数おり、強者だらけの顔ぶれだったせいか20000人以上の応募があったという。その中の貴重な1枚が自分の手元にきた意味をかみしめる。

 

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敗者復活戦は本当に素晴らしかった。司会の陣内さんと新川優愛ちゃん、ゲストのNON STYLE石田さんとトレンディエンジェルの2人、そして前説とCMつなぎのイシバシハザマが寒いなか凄く盛り上げてくれて、なにより16組全ての芸人さんのネタが面白くて、あっという間の時間だった。

 

この真剣勝負を見届けるからには、お笑いファンとして真剣に各組のネタを評価しようと決めていたし実際そのようにしたが、それはそれとしてやはり好きな人がどうしても勝ち上がりますように、と祈っていたことは否めない。

前述のふせったーに書いた通り、今年の和牛のネタは決勝で2本セットで披露したいものだと私は読んでいて、そうすると敗者復活戦はその2本を外してくると踏んでいた。しかし、今年の和牛の持ち弾で「これをやれば確実に勝てる」と思えるものがその2本以外に想像つかないのが正直なところだった。いや、他のネタが面白くないとかそういうわけではなく、「確実に勝てる」なんて普通はありえないのだ。だけどそう思えるくらい、その2本の完成度が高かった、少なくとも私の感性においては。なので敗者復活戦に何のネタを選ぶのかが全く未知数で不安だった。

 

はたして、4組めに出てきた和牛が始めたネタは、その2本のうちの1本ーー「内見」だった。ふたりが内件ネタに入った瞬間に、私は「あ、これは決勝行ける」と確信した。勝ち上がるためのネタを選んだんだな、と。

敗者復活戦は生放送されているから、決勝にあがれたとしてもこれを2度は繰り返さないだろう。そうなると本来決勝2本目でやるはずだったネタを1本目にやるだろう。そしたらきっと最終決戦に残れるから、さて、そのときは何をやるかな?

ーーこの時点でここまで脳内シミュレーションするくらいには客席で手応えを感じていた。アドリブ一切なし、計算され尽くした4分間。これで勝てなければ今年はそういう年だったんだな、仕方ないな、と納得できる……なんて思いながら彼らを見つめた。

 

全組が終わって、本放送までの間にネットで敗者復活戦をテレビで見た人の感想をサーチする。確信はさらに深まり、強い気持ちで結果発表の会場へと戻る。

 

今年はえみくじで「敗者復活」枠が出るまで、誰が勝ち上がったのか発表されない。そのため本放送を会場のモニターで見ながら、いつでるともわからない「敗者復活」のくじを待つというシステムだった。舞台上には敗者復活戦を戦った16組の芸人たち。客席の私たちと一緒に、モニターで放送の様子を見守る。

これは私がガチ恋だからだろうが、この時間がなんだか、涙が出るほど幸せだった。大好きな芸人たちとーー大好きな人とーーまるで居間でひとつのテレビを見ているみたいな感覚。私が笑うタイミングで好きな人も笑い、放送を楽しみながらも、どこか敗者復活枠のことが気になって緊張しているのもきっと同じで、なんだか少しだけ仲間になれたような、心の距離が近付いたような……そんな甘い胸の痛みを感じていた。

 

その時は思いの外早く訪れた。出番順にして3番目。えみくじで「敗者復活」枠が出た。

 

雨の降る極寒の屋外の空気が一瞬にして沸騰した。歓声、悲鳴、静寂。そして、彼らのエントリーナンバーが呼ばれる。まわりの芸人が彼らを抱きしめる。観客にもみくちゃにされながら、彼らが、私が恋をしている人が、テレビの中へと向かって走る。残された、敗退した芸人さんたちが、頑張れ! 優勝してこい! と叫ぶ。私たちも願う。ああどうか、この人たちのぶんも、あなたが、と。お客さん! さあみんなで! ここにいるみんなで一緒に! 和牛を応援しましょう! と陣内さんが呼びかけ、興奮の渦のなか芸人も観客もひとつのモニターを眺めた。

私はこの一連の風景を生涯忘れないだろう。忘れないために今ここに書いている。まるで美しい映画を見ているような数分だった。そのまま、まるで美しい映画のような、彼らの漫才がはじまった。

「内見」だった。

 

今までずっとネタを変えてきた彼らが、敗者復活戦と同じその1本を選んだことに少しだけ驚き、同時に納得しかなくて、泣きそうになった。

やはりこの人たちは、2本をセットで披露することを選んだのだ。勝利のためか美学のためか、きっとそのいずれでもある気がする。

「内見」は、決勝戦で披露された通り、引っ越しの家選びで色々な部屋を内見に行く、という漫才だ。

そして、最終決戦に残れたら見られたであろうもう1本のネタは「引っ越し」。

内見からの引っ越し、という、続きもののようなネタだったのだ。

 

 

内見は、不動産業者である水田さんに川西さんが翻弄されながら突っ込んでいく。前半は、見る部屋見る部屋全て先住民がいる、という流れで、ショートコントが4回繰り返されるような構成だ。その区切りごと(各物件ごと)に「おじゃましました~」という共通のセリフで場面が転換する。「おじゃましました」というセリフは共通だが、水田さんだけが言う→ふたりとも言う→川西さんが水田さんに言う、という風に状況は変わりストーリーも進んでいく。その都度、マイクを挟んで舞台を縦に使う動きも新しい。

後半は変な物件を見てハードルが下がりきった川西さんが「人が住んでいない」ただその一点で、とんでもない事故物件を気に入り「いいね!」と褒め出す。ツッコミがボケへと変化する面白味。そして金縛りに合うという設定で動きがなくなるオチへの向かいかたは昨年の「ゾンビ」も彷彿とさせるような緩急のある笑いだ。

 

「引っ越し」も引っ越し業者である水田さんの奔放な提案に川西さんが翻弄される……という導入から始まるが、ストーリーが進むに従い前半の水田さんのボケが全て川西さんによって回収されていき笑いを生み出す。構造としては2017年M-1で披露した「ウエディングプランナー」によく似ている。だが「ウエディングプランナー」後半の「ツッコミである川西さんが巻き込まれた結果ボケるしかなくなる」という構図から更に進化して、引っ越しは「巻き込まれた川西さんがむしろ積極的にボケへ加担していく」という新しさがあった。オチに向かってはもはやボケ2人で畳み掛けていくようで、見終わった後はひとつのショーを見たような爽快な余韻が残る。

私は今まで一番完成度が高かったネタはウエディングプランナーだと思っていたのだけど、「引っ越し」を見た時に「また過去の自分を越えてきた……」と震えた。そして「内見」→「引っ越し」という順番でネタを披露すること、きっとそこに勝機があるのだと感じた。

 

ごく個人的な感覚だが、M-1で3位までに残ってネタを2本披露した場合、「1本めのネタの方が印象に残っている」というケースが非常に多い。まず1本目で上位3位に入らなければならないのだから当然一番強いネタを1つめに披露することになる、という理由もあるだろうし、漫才のスタイルが決まっているコンビは2本目で「同じパターンか」と思われてしまう、という理由もあるだろう。

もし今回和牛が「内見」「引っ越し」の順に2本ネタを披露できたら、まず「ひとつづきのようなテーマ」の2本目がはじまったことに視聴者は驚くだろう。私がもし何も予備知識なくフラットな気持ちでただM-1を見ていたら間違いなく「なんてオシャレなことしてくるんだこの人たち!」って震えると思う。

そしてどちらかといえば淡々とした職人技のような笑いの「内見」とくらべて、「引っ越し」は動きも熱量も大きく、よりわかりやすく勢いのある内容である。そのギャップ、ひと続きの2本目で更に笑いどころが増えること、あらゆることがアドバンテージになって高得点が狙えるのでは、と私は考えていた。ただそれにはいぶし銀のようなあの「内見」で、3位以内に入らねばならないのだった。

今年の強力な面子に加えて、3番目という早い出番順。敗者復活戦は勝利を確信していたが、これは五分五分だなと思っていた。あとはもう祈ることしかできなかった。

 

 

 

 

 

脱落が決まったとき、CM中にもう1本やるんでそれ見て決めてもらってもいいですか?とボケた水田さん。のちのラジオやテレビで、やりたいことやれたから悔いはない、まあ欲を言えば2本やりたかったかな、と笑っていたふたり。

M-1が終わっても漫才師の日々は終わらない。翌日の寄席でふたりが選んだネタは「引っ越し」だった。ライブに行っていたファンの方が「昨夜の続きを見ているようだった。やりたかったことをやれて、これで本当にM-1が終わったように感じた」と呟いていて、私もなんだか救われたような気がした。

 

 

 

M-1という賞レースそのものが、本来は10年目までの若手のためのものだった。今年の顔ぶれを見てあの大会の役割が本来のものに戻りつつあるのかもしれない、と感じた。もうすでに漫才師として十分評価されていて、タレントとしても寝る間がないほど売れている彼らの居場所は、もうM-1にはなくなったのかもなあと思う。

ただただ、恋する人が「冠」をとるところを、私が見たかっただけだった。売れることよりもテレビよりもなによりも、漫才が好きで漫才のことばかり考えている人に、No.1漫才師という肩書きが与えられることを祈っていた。

 

でも、M-1後に見た彼らは、ラジオもテレビも舞台も全部すっきりとした顔で、いつも通り面白くて、楽しそうに笑っていて。私のエゴなんかどうでもよくなってしまった。

好きな人がひとつの仕事をやり遂げたこと。これからまた新しい芸人人生を進んでいくこと。片思いだからそれを見ていることしかできないのは相変わらず辛いけど、せめて見るだけでもしていたい。

28日、今年の舞台納めで彼らを見に行った。泣くほど面白い舞台だった。私の恋している人は、本当に面白い。

 

ガチ恋のことは忘れてお笑いファンとして真剣にM-1と向き合った結果、好きな人のことを芸人として何十倍も好きになったし、うっかりガチ恋も更に加速して息も絶え絶えなんだけれど、まあそれは私が耐えるしかない苦しみなので、なんとかします。

 

 

なんで急に好きな人のことを書こうと思ったのかな。ガチ恋同担拒否だから、彼の魅力なんて絶対人に言いたくなかったしこの感情は私だけのものにしたかったのに。でもなんだか、好きな人が世界から認められてほしい、そういう気持ちも確かにあったんだ。それだけ。

 

 

 

私は、2020年も、「漫才の概念のカタチそのもの」である人に、届かない恋心を抱えて生きていく。

 

オッケーよなんて強がりばかりを僕も言いながら

本当は思ってる 心にいつか安らぐときは来るか?と

小沢健二/さよならなんて云えないよ)

 

 

3週間くらいのこと

Twitterのアカウントを作ってから約10年、24時間以上ツイートの間隔が開いた日は片手で収まるほどしかなかった。10年間同じアカウントで、増え続ける好きな人や趣味のこと、食べたものや見たテレビ、なにもかもごちゃ混ぜにして日常を垂れ流し続けてきた。ごちゃ混ぜなジャンルの人が集まるのでいつしかフォロワーはちょっとした企業の社員数くらいに増えたが、私が好きなものだけ集めた私のTwitterランドは、私にとってどんどん楽しいコンテンツに成長するばかりで、多分死ぬまでずっとTwitterやってんだろうな、という気すらしていた。

 

そんな自分が、1週間Twitterのアカウントを消した。私のマシュマロ(匿名メッセージサービス)には「SNSに疲れてしまった」という相談がよく来るので、もしかしたらフォロワーさんの中には、私が消えた理由をそうとらえた人もいたかもしれない。

実際はむしろ逆というか「Twitterが楽しすぎるのでいったん離れた」と言ったほうが正確である。SNSというか、シンプルに人生そのものに疲れていたのだ。

 

10月中旬頃から、NEWSもお笑いも仕事も全然関係ないところでメンタルを削られていた。まあ端的に言えば金銭的な問題で追い込まれていたのである。と言ってもこのブログで

限界遠征記 を書いた時ほど物理的な窮地に立たされているわけではない。無職だったこの頃と比べて収入は(少ないながら)安定している。しかし、諸々の事情で「趣味や交際にかかる費用を一切絶ちきらねばならない」という精神状態に陥っていたのだった。

もともと削れるものは極力削ってきた。化粧品は全てプチプラだし服はコンサートの時に1着買い足すくらいで、普段は友人が捨てようとしてるものをもらってきて何年も着ている。毎月、各種支払いで残るわずかなお金を、趣味を含めた交際費に当てていた。

それを全て無くさねばならない、と思った。

まずは「11月は誰とも会わない(飲み会に参加しない)」と決めた。そして外の飲み会だけでなく、家で飲むのもやめた。私も夫も毎晩飲むので酒は家計で購入しているが、飲まない分だけは生活費の負担を減らしてもらおうという思惑ゆえである。酒を飲まないなら飯も特に必要ないので、夕飯そのものをなくした。

仕事から帰ると20時半過ぎ。今まではそこからダラダラ食べて飲んで深夜2時過ぎまでテレビを見て過ごしていたが、飲まないし食べないならリビング(テレビも食卓も全てここにある)にいる気も起きない。私は酒を飲むと眠くなるどころかどんどん元気が出ていつまでも起きていられるのだが、飲まないと普通に眠くなって毎日22時には寝るようになった。22時に寝て7時に起きて仕事に行き、20時半に帰宅し風呂に入り22時に寝る。毎日がこの繰り返しとなった。

Twitterをフォローしてくれている方はご存知の通り、私は24時間ほぼいつでもTwitterに住んでいて「いつ寝てるんですか」と定期的に突っ込まれていたし実際平日はあまり寝ていなかったのだが、1日9時間寝るようになったのでこりゃ健康にいいや、と最初は思っていた。

が、健康にいいどころか、みるみるうちに弱っていってしまったのである。

夕飯を食べないことそれ自体はさほど苦痛ではないし、たっぷりの睡眠で肉体的には元気なはずなのに、疲れがとれない。寝ても寝ても眠い。というか何も見る気になれず何も楽しいこともなく、起きていても楽しくないから寝るしかなかった。

朝の通勤時間と就寝前のわずかな時間だけTwitterをのぞくが、テレビも見ていないし情報も追っていないので気持ちのエンジンがかかるまでに時間がかかる。それでもタイムラインを眺めていると、私の好きなフォロワーさんたちがそれぞれの好きなものについて楽しそうに発信していて、心を動かされたりもした。ああ、美味しそうなお店だな行ってみたいな、素敵な場所だな行ってみたいな、NEWSのことをみんなで語りたいな、オタクと遊びたいな。

そうして心が動かされる度「いや、今月誰とも会わないって決めたんだった」と思い出す。私は楽しいことを発見したらそれを直接見に行きたくなり、共有できる友人と会いたくなってしまう。だけど交際費を減らしたいなら人と会うのをやめるしかないのだ。

会いたくなってしまうからTwitterを見ることも減らした。心は更に死んでいった。

 

ある日、既に布団に入った状態で、少しだけTwitterを見るとタイムラインが大盛り上がりだった。22時半頃だっただろうか。遡ってみたら、その日はバラいろダンディに小山さんが出演する日で、その後ダウンタウンDXにも出ていたのだった。ちょうどDXが放送されている時間だった。

全く知らなかった。なんならDXに出ること自体知らなかった。

 

なんだか猛烈に悲しくなってしまって、もうだめだ、と思った。きっとオタク友達の誰かが録画の救済をしてくれるだろうことはわかっている。だけどそういうことではなかった。ただただ悲しくて、情けなくて、虚しくて、折れてしまった。

10月後半からその日までで、飲み会の誘いを既に5つ断っていたのも更に追い討ちをかけた。

ちょっといったん、私は、私の欲望から、物理的に距離を置こう。自担のテレビ出演を見逃して絶望したり、会いたい人からの誘いを断らなくてもすむように、ひとりで、誰とも関わらず、ただ仕事へ行って寝るだけの毎日を過ごそう。

 

そう思ってアカウントを消した。ちょうどアカウントを消した頃、ずっと待っていたNEWSの新曲について発表されたようだったが、その時はもちろんそれにも気付いていなかった。

 

 

アカウントを消してから何をしていたかというと、仕事とマリオカートドラクエと睡眠。以上である。幸い、ゲームに課金するタイプではないので無料で遊べて誰とも関わらずにすむアプリゲームは今の自分にうってつけだった。

休みの日、ドラクエの千葉県限定モンスターを倒すために近所の公園へ行くと、同じようにゲームをしながらウロウロしてる人たちがたくさんいて、ああ、多分これが「当たり前」の生活に慣れれば、どうってことないのかもしれないなぁ、とぼんやり思う。こうして晴れた日に歩いて公園にきて、自転車の練習をする子供の声や犬の散歩をさせてるおじさんを眺めながらゲームをして、帰って納豆ごはんを食べて寝る。そんな毎日も悪くない。今まで楽しいことは散々やってきたんだから、これからはもう余生だと思ってエコに暮らしていけばいいじゃないか。

 

そんな悟りというか完全に諦めの境地、みたいなゾーンに突入した頃、母から1通のLINEがきた。

「嵐が式典で歌った曲の楽譜がほしい、売ってないのかな?」

???

……本気でなんのことだかわからなかった。なにしろ2週間テレビのリモコンを触っていない。ここしばらくはドラクエマリオカート攻略サイト以外インターネットも見ていない。頭の中をハテナでいっぱいにしながら話を聞くと、週末に天皇陛下即位のパレードがありそこで嵐が歌を披露したとのことだった。確かに嵐がそのような大役に選ばれたのは知っていた、が、もう終わってたのか!!? 

衝撃を受けながらも母のために嵐の曲について調べてみると、式典参加者に配られたというメロディラインの楽譜と、耳コピで楽譜を起こしてピアノ演奏している方の動画が見つかったのでひとまずそれを送る。

 

いくら余生とはいえそんな日本の大イベントすら気付かないなんて、今の私は生きていると言えるのか? 生きている意味があるのか??

なんだかもうよくわからなくなってしまって、母に送ったままのYouTubeの画面をボーっと見ていたら、演奏動画を閲覧した影響でオススメ欄にピアノ系の動画がいくつかサジェストされていた。あぁ、そうだ、こういう時はピアノだ……、と、その中のひとつを何気なくクリックした。

実家がピアノ教室だったので、私はピアノの音を聞くと無心になれる。母のお腹の中にいた時からずっと日常の中にあった音。特にめちゃめちゃクラシックが大好き!感動する!というわけではなく、単純に「無」になれる、それが私にとってのピアノ曲である。

 

YouTubeには「弾いてみた」系の動画がたくさんあがっていた。なるほど、昔はニコニコ動画だったものが今はYouTuberに移行してるんだなぁ。まらしぃさんとか懐かしいな~などと思いながらいくつかを無心で聞いていく。

すると、ある動画にたどり着いた。何百万回も再生されているものなので有名な動画なのだろうが、YouTube界隈に疎いので完全に初見だった。詳細は省くがそれは青年がストリートピアノを演奏しているものだった。

再生してみると、青年が楽しそうに、本当に楽しそうにピアノを弾いている姿に一瞬で心を奪われた。見終わって、もう一度再生して、また再生して、何度も何度も繰り返しては、嬉しそうで楽しそうな笑顔と音に、見てるこちらもずっと笑顔になってしまう。気がついたらその青年のupしている動画を過去のものからひたすら見続けていて、朝の6時になっていた。

 

久しぶりに1時間しか寝ないで会社へ行き、眼精疲労と寝不足でズキズキする頭を抱えながらも、1日9時間寝ていた10月後半からの日々の中でその日が一番元気でいられたように思う。その日の夜も、そのまた翌日も、ずっと彼と、彼に関連している演奏家さんの動画を見続けた。睡眠時間はどんどん奪われ、タブレットの充電と体力もどんどん奪われていったが、心はみるみる元気になっていくのが自分でもはっきりとわかった。カラカラだった植木鉢に水をやった時みたいな感覚だった。

いつか彼の演奏会があったら絶対行こう、そのためには情報が必要だよね。と、彼のTwitterをフォローしようとして、そっか私Twitter消してたんだった、と思い出して笑ってしまった。現場へ行きたい気持ちを封じるためにTwitterをやめたのに、結局行きたい現場が増えてしまった。まったく私は、生きてるだけでコスパが悪い。

でも、もう大丈夫だ、戻れる、と思った。

 

私はやっぱり、なにかを好き!って気持ちを捨てることなんてできないのだ。

なんのとりえも才能もないけれど、この世のたくさんの人や物を愛せること、愛すべき人を見つけることが私の唯一の長所なのだから、その気持ちを抑えようとしたら生きていけないのだ。そのことが本当によくわかった。

 

禁欲生活は続けている。11月はこのまま飲み会を断るつもりだし、今後も今までより外出は控えるだろう。だけど金銭面以外の欲望は、抑えこまなくてももうコントロールできるような気がする。今までは愛の量だけお金もかかった。お金を使わないためには愛を封じるしかなかった。それが全てを絶った3週間を経て、愛と欲望と出費のバランスを穏やかな心で考えられるようになったのかもしれない。

 

ちょっと精神的に追い込まれ過ぎてて、生きてるだけでハッピー!毎日楽しいサイコーナイスゥ~!!ってテンションでいられなくなってた自分がしんどかったのだけど、よーくわかった!! お金がなくてあまり現場に行けなくてもオタクになかなか会えなくても、やっぱり私は生きてるだけでハッピー!毎日サイコーナイスゥ~!!

なぜなら大好きな人がこの世に生きててくれるから!

そんな大好きな人が日々増えていくから!!